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官能文学辞典

テーマ小説「境界にあるバーにて」 ー第七夜ー 【舞衣-2】

 

 そして私は三年前からそうしているように、今日もまたワイルドターキーで唇と喉を軽く湿らせてから両切りのラッキーストライクに火をつけた。パチパチと小さな音をたて、ほのかに甘いオークの燻香を纏ったラッキーの煙が肺の深くに根をおろす。
「ふーっ」
  ため息をひとつついて、私は身体のすべてを椅子にあずけ目を閉じた。
  ゆっくりとタールが血液に滲みて身体をめぐる。このとき私は私の身体の中を私の「男」が巡る感覚に陥る。「人」だったり「大人」だったり「中年」「父」「部長」といった私のたくさんのアイデンティティが「男」に集約され力がみなぎる。青臭い言葉だが「熱き血潮」を感じる。疲れた中年になってしまった私にとってそれはそれだけで甘美なひとときなのだ。
  ふた口目のターキ―は一気に胃の中に流し込む。カッと腹の中が熱く燃える。いいぞ、今日の私は調子がいい。ひなびた筋肉に力が甦えったようだ。
  カラン。
  氷が回って音を立てたそのとき、右側のトイレから女が出てきた。
  私は瞬時に目を奪われた、いや、心を奪われてしまった。
  身体のラインに沿って仕立てられたオフホワイトのスーツ、ウエストのシェイプがやや細すぎる気がするのはおそらくその下の腰部が発達しているからだろう。豊かな太ももにぴったりと貼り付いた短めのタイトスカートからなめらかでひかえめな膝頭がのぞき、そしてその先はごく自然なカーブを描いてすんなりと長くのびる脚……その先にはラインストーンで飾られた華奢なサンダル。ストッキングは履いておらず、足先では桜色の爪が、ラインストーンに横切られている。
  私は息をするのも忘れ彼女に見とれた。
  彼女はトイレから見て私より3つほど隣りの席のところで立ち止まり、ふわりとしなやかな黒髪をいったんはらってから深い椅子の影に隠れた。
  私の目に彼女の髪の漆黒の残像が残った。
 それがいったいどのくらいの時間だったのだろうか、私はハッと我に返って、気を落ち着けようとラッキーを吸った。
「熱っ」
  ラッキーは私の指を焼き、慌てて口を離した私の舌には苦い葉が残り、私は誰に見られているわけでもないのに苦笑でその失態をごまかした。
  しかし、こんな気持ちはいつ以来だろうか。私はそう考えながら舌の上の葉を指で取り除き、いや生まれてこのかたこんなにも心を奪われてしまったのは初めてのことかもしれない、と指の上に乗った葉を眺めながら思い直した。
  このまま見逃す手はない。
  先刻感じた熱き血潮をもう一度呼び覚まし、私は彼女に求愛せねばならない。そうだ、そうせねばならないのだ。
  グラスの底に残っていたターキを飲み干した。ほぼ氷が溶けただけの水だったが、そんなことはどうでもよかった。まずは彼女に一杯奢るのがこういった場所の流儀であろうと、マスターを呼ぼうとした。
  が、マスターはシェイカーを振っている。
  女性バーテンに頼もうかと思ったが、それは何かが違う気がして控え、マスターがカクテルを作り終えるのをじりじりと待った。いつまで振ってるんだ水っぽくなってしまうぞなどとイライラしてしまった自分を恥じてラッキーに火をつけた。
  からからに乾いた唇にフィルターの紙がくっついてとれなくなったので、もうそのまま吸い続けることにした。
  幸い、唇を焼く前にマスターがカクテルを作り終えた。さぁあとはグラスに入れるだけだ、早くしろ。それが終わったら私の番だ、そして彼女は私のものだ。
  シェイカーからトールグラスに液体が注がれ、上からソーダが足された。軽くステアされて、そのグラスは彼女の席に差し出された。声は聞こえなかったが、マスターの様子でそのカクテルが他の席の男性から彼女に贈られたものだとわかった。
  先を越された。
  カウンターの上のダウンライトの灯りに照らされて、グラスの中がまるでシェードランプのようにぼんやりと光っている。その光の中をキラキラとした粒子が踊っている。まるで天使のようだ。
  私は天使を飲みくだす彼女を想像した。細くて白い喉が動くその様を想像した。薄すぎる皮膚からキラキラと天使は透けて見えるだろうと想像したところで、股間に血液が流れ込み目頭が焦げ臭くなった。
  その天使が私からの贈り物だったら……
  後悔と嫉妬に苛まれてながら、それでも私の股間はたぎるほどに熱く、妄想の中の彼女の喉の動きにあわせて激しく痙攣した。もう限界だった。すべての血液が股間に流れ込んだがごとく私のそこは腫れ上がり、それとは逆に脳は思考を失いかけていた。
  ところが、彼女はそのグラスにはいつまでたっても手をつけなかった。椅子は動くことなく、ただカウンターに置かれたグラスの中の氷が小さくなっていくばかりで、天使たちはすべて底に落ちてしまい、グラスは次第に輝きを失った。
  私の唇に貼り付いていたラッキーストライクがふいに取れた。
  私は自分の中のなにかが萎んでいくのを感じながらその火を灰皿に押し付け、潰した。
  静寂が戻ってきた。
  ほどなく彼女が席を立ち、今度は左側のトイレへと消えた。トイレに向かう途中で私の背後を通ったのだが、そのときには私はもうなにも感じることもなく、私の股間も静かなままだった。
  おそらく彼女は当分トイレから出てこないだろう。少なくとも、ここにいる男たちが全員帰ってしまうまでは出てこない。
  なぜだか私はそう感じた。
  まぁいい。今日はこんなところでいいだろう。なにしろ良い女であることに間違いはなかった。先を越されてしまったのは悔しかったが、彼女がどんな男にでもホイホイ着いていくような女ではなかったことも良かった。なにより自分に男としての力がまだあることがわかっただけでも素晴らしいじゃないか。また良い女に、股間を直撃するような女にまた会える可能性だってあるだろう。
  ぞろぞろと男たちが帰っていく気配がした。みんなあの女を狙っていたのだろうか、そう考えると滑稽な自分に笑いが漏れた。だが、まぁいいじゃないか。
  せめて私は一番最後に店を出よう。一刻も早くこの場を立ち去りたい気持ちは彼らと同じだがせめてものやせ我慢だ。
  私はマスターを呼んだ。
「ワイルドターキーのロックをもう一杯。あ、ちょっと待って。あと……これをトイレの彼女に」
  私が差し出した携帯番号を書いた紙切れを見て、マスターは同情とも侮蔑ともとれるような微笑を漏らした。

 

出典『境界にあるバーにて』サロンアンソロジー 鹿鳴館出版局

 


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