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官能文学辞典

テーマ小説「境界にあるバーにて」 ー第十夜ー 【執事-3】

 

 地下深いバーでウイスキーを手にしようとした瞬間に着信メールを知らせる音楽が鳴った。スーツの胸ポケットでは同時に細かな振動が起きる。不信に思いながら携帯を取り出すと、確かにメール着信があったようだった。
  私は、メールを見る前に、思わず左斜めにいたバーテンを見てしまった。初老の紳士はいつもと変わらずにグラスを磨いていた。着信音に驚いた様子はない。それでいて、この地下深くで携帯が受信できるようになったということを言うつもりもないようだった。いや、このバーがそんな設備を入れるはずがない。そうしたことを嫌った客がこのバーには来ているはずなのだから。何の設備もなければ地下三階ではないかと思われるこのバーで携帯が受信できるはずはなかった。地下三階と思うのは、地上からの細く長い階段に三つの踊り場があるからで、実際には、もっと深い可能性もあった。
  メールを開くと「あなたに逆らった男は辞めさせるつもりです」と、あった。妻からのメールだった。私の妻は十数人の小さな会社の社長だった。そして、彼女の会社はこのご時世にまあまあの業績を上げていた。
  彼女の会社の成功は、彼女の才覚もあったが、一流企業に勤めていた私の信用と資金があったからこそのものであった。だから、私が会社で失敗し、失業した後も、彼女は私一人ぐらい食べさせて行くことに何の抵抗もないようだった。
  しかし、私のほうはそれを良しとしなかった。女に食わせてもらっているというのも嫌だったし、家でぶらぶらしているのも性に合わなかった。
  私は彼女の会社に相談役として入った。もともとが私の信用と資金によって作られた会社だったのだから、それは私としては当然のことだった。彼女もそのことは十分に社員に説明していた。会社というのは労働するものより資金を出したものが偉いのは、この日本では常識なのだ。
  私は彼女の事業を見直し、経理や営業を見直した。業績が悪いわけでもないのに、どういうわけか私は自分がこの会社を立て直してやる、と、言ってしまっていた。軋轢はすぐに生じた。小さな取引先からクレームが入り仕事のいくつかを失った。しかし、大きな取引先からは歓迎された。私が接待と仕事のダンピングをしたからだ。大きな企業と付き合うことは小さな会社の宣伝にもなるのだから、そこから利益を取る必要などない、と、それが私の考えだった。そのために、会社は赤字になった。一時的なことなのだが、社員にはその一時的なガマンができないようだった。ボーナスが少し減っただけで私を非難し、暴君と陰口をたたくようになった。
  私は携帯で「悪いのは私だ。彼はいいヤツだと思う。会社には必要な人材だ。辞めるのは私ということにしよう」と、返信した。
  メールの返信が確認されると、携帯はそのまま圏外となった。再び私は初老のバーテンの顔を見てしまった。彼はこちらの様子など気にかけることもなく、サイフォンにコーヒーの粉を入れていた。誰かがコーヒーを頼んだのだろう。このバーの椅子は背もたれが高く、左右にその背もたれがせり出しているので、隣の席の客の姿は見えない。カウンターだけの横に長いバーなので、その深い椅子に座るとまるで広いバーに一人でいるような気分になれる。このバーは一人でいるのに孤独でない不思議な空間なのだ。
  コーヒーを淹れる音は聞こえないが香りは漂ってきた。私はウイスキーを飲み干してグラスを前にやり、コーヒーを注文する準備をした。
  バーテンは二人で初老の紳士の他に若い女性がいる。その女性が空のグラスを美しく細い手で受け取ると私を見てにこりと笑った。まるで私が香りに誘われてコーヒーを頼むことを知っているようだった。
「コーヒーを」
「はい」
  彼女の返事を聞きながら、私はもう一度、胸ポケットから携帯を出して確認したが、携帯はやはり圏外となっていた。私のために淹れられる二つ目のサイフォンがカウンターの上に置かれた。
  しばらく家でぶらぶらしてみるのもいいかもしれない、と、その時、私は思った。

 

出典『境界にあるバーにて』サロンアンソロジー 鹿鳴館出版局

 


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