-->
鹿鳴館サロン
鹿鳴館について コンセプト 初めていらっしゃる方へ system イベントカレンダー イベント報告 サロン日報 トップページへ

SM小説

鹿鳴館

 



M女は悲しみとともにやって来る

 M女は誰れも、悲しみとともにサロンを訪れる。しかし、サロンで泣くものはいない。皆、明るく自分を語り、笑い、たまに怒る。悲しみの尾はどこかに隠している。まるで、その尾を見つけられたら命が吸い取られでもするかのように、彼女たちは、それを隠している。
  ミルクがサロンをはじめて訪れたときもそうだった。真っ白なダウンを脱ぐと、それだけでサロンにいた男たちの視線を集めた。ダウンの下は冬とは思えない超ミニに生足、ニットのセーターは短く、ウエストから少し肌が露出している。
  彼女は男たちを笑わせ、そして、男たちをメロメロにした。彼女がいる間、サロンは学生時代にやったコンパのような雰囲気となった。誰れもが忘れていた郷愁を彼女はサロンにもたらしたのである。それゆえに、サロンに通う何人かの男たちは、初恋のように彼女に恋をした。
  彼女が来た日に、サロンから帰った者は皆、十歳も二十歳も若返ったことだろうと私は感じていた。
  彼女には交際相手のSがあるらしく、その彼とのプレイの話しも、面白おかしく聞かせてくれた。しかし、その相手のSがサロンを訪れることはなかった。そこに彼女の悲しみがあるように私には思えたものだった。
 
  その日は、朝から激しい雨が振り、その上、この冬一番の寒さになるだろうと、何度となく聞いた。天気予報でも聞いたが、喫茶店でも電車の中でも聞いた。
  私は、こんな日に訪れる人もないだろうと、思い、着替えさえしないまま、コーヒーをドリップした。パソコンに電源をいれ、長くなりそうな夜にため息をついた。
  ちょうどそのとき、チャイムがなった。電話もなしに来るのは常連に決まっている。こんな日は、あまりに暇で私がたいくつしているに違いないと思った誰れかが、私のことを慰めに来たのだろうと思いながらドアを開けた。
「ミルクさん」
  意外だった。彼女が突然、サロンを訪れることはない。たいていは前日から、サロンを訪れることを告げていたのである。
「近くにいて、でも、まっすぐ帰りたくないから、来ちゃった。でも、忙しいようなら帰るね。今日は騒ぎたくないから」
  玄関に靴は一足もない。
  私は、それを指さしてニッコリと笑って見せた。彼女は安心したように黒のブーツを脱ぎはじめた。ブーツの次には黒のロングコートも脱いだ。そして、奥へと誘う私に「お酒は飲みたくないの、何か暖かいものを」と、言った。
  私たちは、大きなテーブルに向かい合ってコーヒーを飲んだ。
「ホッとするね」
「そうですね。お酒でないほうが、ホッとすることってありますよね」
「前から聞きたかったんですけど、執事さんって疲れないんですか」
「疲れますね」
  肉体の疲労のことを尋ねられたのでないことは分かっていた。私は、いつもふざけているわけではない。そうした質問にはまじめに答えるのだ。乱痴気騒ぎはサロンのうりではない。
「どうして疲れるの」
「それは、ここに悲しみがたくさんあるからじゃないですかね。たくさんの笑いの奥にあるたくさんの悲しみ、それが私の心に沈殿していくんですよ。その重みを抱えて私は生活するわけですからね。それは疲れますよ」
「分かってた。そうだと思ってたの」
  ミルクというのは、もちろん、インターネット上の偽名である。私は彼女の本名さえ知らなかった。ただ、もし、本名が分かったとしても、きっと、その名前はミルクほど本人に似合っていないのだろうという確信のようなものがあった。
「私も少し疲れちゃったの」
  彼女はコーヒーを口に運び、そのままカップに口をつけずにテーブルにもどした。コーヒーの熱いのが苦手なのか、何度となくそんなことを繰り返した。
「今日、たくさんの人に犯されました。それはいいんです。私はあの人の所有物ですから、当然、他人に貸されることもあるんです。私を鞭打つのは、あの人だけではありません。あの人が許した人なら、どんな嫌な人にも私は鞭打たれるんです。セックスだって、誰れとでもします。あの人の命令なら、私は何でもするんです」
「でも、ミルクさんは疲れてしまうわけですね」
「そうなの。執事さん、見てもられます」
  彼女はそう言うと、立ち上がりスカートを捲り上げた。そして、ためらうことなくパンツを降ろした。パンツに隠れた部分だけが紫に変色している。
「まだ、熱をもっているから、こうしてお尻を出していると恥ずかしいけど楽なんです」
「パンツを脱いだままいてもいいですよ」
  彼女は小さな丸みのある膨らみを椅子から少しずらして腰を降ろした。そして、器用にそのままパンツを足首から抜き取った。
「痛そうですね」
「痛いけど、それはいいの。痛いのは私の幸福の記憶だから。嫌なのは残った痛みや痣じゃないの。知らない男たちに抱かれた記憶のほうなの。だって、肌に別の男のぬくもりを残すのは嫌なの。苦痛の記憶は幸福になるけど、幸福の記憶は苦痛になるから」
  露出した彼女のお尻は、そのままなら、むしゃぶりつきなくなるような形なのだろうが、しかし、その傷痕を見ると、とてもエロティックな気分にはならなかった。
「執事さんには、おかしく見えるんでしょうね。こんなことされて、どうして幸福なのか疑問でしょう。その上、とても好みでない男たちとセックスまでさせられて、身体も心も傷つけられるんだよ。私だって、こんな女の子が友だちにいたら、おかしいと思う。そんな男とは別れたほうがいいと言うと思う。自分のことは棚に上げてね」
  私はコーヒーを飲みながら、ぼんやりと天井を見つめていた。彼女のお尻から目を逸らしたかったわけではない。M女の悲しみに触れたことで、少しばかり辛くなっていたから、意識を逸らしたかったのだ。
  M女たちは、痛みを感じて幸福だと言うが、その幸福は大きな孤独の上にある幸福なのだ。つまり、痛みがある間だけ、M女は人とのつながりを感じていられるのだ。逆に言えば痛みがなくなれば、自分がそこで確かに生きていることさえ分からなくなってしまうのだ。そんな激しい孤独の中におかれているために、痛みがそこにあるだけでも、その痛みをつけた人の記憶を辿り、それを幸福と感じてしまうのである。その幸福はあまりにも冷たい。低温火傷するほど冷たい。
「少し冷やしたりしますか」
「冷やさないで、今、あの人の熱をお尻で思い出しているところだから。この瞬間が幸福なの」
  幸福なら、サロンになど来るはずがなかった。痛みだけではどうにもならない孤独をサロンで紛らわせるために彼女はやって来たのに違いない。
「執事、誰れも来ないね」
「こんな雨ですからね。誰れも来ないでしょう」
「そうだよね。ねえ、だったら、執事、何か話しして」
  M女たちは、たいてい私の話しを聞きたがる。しかし、私が自分の話しを最後まですることはない。たいていは、私の話しを遮って自分の話しをはじめてしまうからだ。
  彼女もそうだった。
「執事も苦労してるんだね。私もね、子供の頃はものすごい辛かったんだよ。両親はいつもケンカしていて、私はいつも一人だったの。一番辛かったのは、十一歳の誕生日のとき。その日が私の初潮の日だったの。でも、父親は仕事で家にいなくて、母親はそれに腹をたてて、近所の親戚の家に遊びに行っていたの。もちろん、二人とも、そのときには、もうすでに私の誕生日なんて忘れていたのだと思う。そうして、夜まで両親がいないことは、ほとんど毎日のことだったから。誕生日だからいなくなったわけではないの。でも、誕生日ぐらい、どちらかにいて欲しかった。プレゼントなんか要らないから、ほんの小さなケーキだけでも食べたかったの」
  私は二杯目のコーヒーをつくった。彼女の話しが長くなりそうだったからだ。
「誕生日に一人。その上、その日が生理なんて、ものすごく惨めでしょう」
  彼女の悲しみや憤りが私には理解できた。寂しいだけではないのだ。どうして私だけが、こんな不幸なんだと憤るのである。皆が幸福にしている中、自分だけが世界の不幸を背負っているように思えるのだ。
  世界にはもっと辛い人も、飢えて苦しい人もいるのだと言っても、彼女たちは理解しない。飢えや苦痛よりも、辛いのが孤独だと彼女たちは感じているのだから。
  私は何も言わずに、天井を見つめた。何もない天井以外に私が見ていい場所はない。彼女を見ればその私の優しさが彼女を傷つけることになる。時計を見れば彼女の話しに飽きているという合図になる。たとえばテーブルを見ても、彼女の話しよりもテーブルの汚れが気にかかっているかのように見えてしまう。ゆえに私は遠くシベリアの大地でも見つめるしかないのだ。
「たいせつにされているという実感が欲しかったんだ。たいせつな物でありさえすれば、それが傷つけるための物でも、壊すことが目的の物だとしてもよかったの。たいせつに痛めつけられたかった。たいせつに殺されたかったの」
  彼女はパンツだけでなく、着ているものを次々と脱ぎはじめた。均整のとれたプロポーシャンは服の上からも分かったが、それにしても見事だった。大きな胸、腰のくびれとゆるやかに膨らむお尻へのライン。少ないヘアーの周囲は真っ白なキャンパスのようだった。肉のたるみがいっさいない張りのある肌をしていた。しかし、その全身は無数の傷でおおわれていた。とくに胸とお尻は、紫に変色し、ところどころ切れて血も滲んでいた。
「執事さん、お願い縛って、私を縛るだけでいいの。他には何もして欲しくないの。鞭も嫌、挿入も嫌、キスや愛撫はもっと嫌。それでも縛ってくれるなんて執事さんぐらいでしょ」
「ええ、いいですよ」
  私は全裸の彼女に縄を入れはじめた。胸にまわし、腰にまわし、全身をミイラのように縛っていく。縄はすぐに足りなくなる。それでも、私はおかまいなしで、縄を足して行った。それは美しい縄ではない。子供の悪戯のように、ただ、グルグルと全身に這わせただけのものだ。それでも、要所要所には、きつい結び目をつくってあるので、決して緩い縄ではない。むしろ、息苦しいほどきつい縄になっていたはずだ。
「どうして執事さんには私の気持ちが分かるの。私はこうして欲しかったの。全身をただ締め付けて欲しかったの。ぬくもりのない冷たい縄で」
  チャイムが鳴った。この時間に来るのは常連に違いない。私は無言でドアを開けた。
「ミルクさんが来てるんでしょ」
「えっ」
「だって、掲示板に行くって書いてあったから、ミルクさんがいるなら行こうかなって思って私も来たのに、いないの。帰ったの」
「ミルクさんって」
  サロンのソファーに腰を降ろし、スコッチを注文した常連の女性はさらに話しを続けた。
「執事、また、悪ふざけしているでしょ」
  私はパソコンを彼女に見せた。そこにはミルクなる女性の書き込みはなかった。その日だけではない。過去にもそのような書き込みは存在していなかった。
  それからしばらく、サロンはミルクという架空の女性の話題でもちきりになった。インターネットだけに存在したネカマだったのだという人たちと、鹿鳴館サロンでも何度か会ったという人たち、そして、そんな名前にはいっさい記憶がないという人たちがいた。
  実際、彼女の痕跡は跡形もなく消えていた。いや、はじめから存在などしていなかったのかもしれない。
  もちろん、私には、そうした女性の記憶はない。
  この小説は、ミルクという女性を見たという人たちの証言を元に、私が想像して書いたものだ。私はミルクという女性はいなかったのだと思っている。
  ただ、もしかしたら、サロンを訪れる多くのM女たちの幻影だったのかもしれないとは思っている。何しろ、ミルクとサロンで会ったと最後まで言い続けたのは、全員がM女だったのだから。
  ミルクというM女はいなかったかもしれない。
  しかし、ミルクというM女の悲しみだけは、確かにサロンには存在していたのかもしれない。
  サロンでミルクを見たと語った多くの方たち、これでよろしいでしょうか。




鹿鳴館出版局

     

 


官能文学辞典
プレゼント文庫

鹿鳴館宣言

妖怪変態論

緊縛図鑑

性異常事例辞典
書評

文章実験室課題

風景違い

小説「窓」

感想会私的書評

感想会私的書評

鹿鳴館の歴史