ポルノ小説とか官能小説というジャンルが小説の中にあるのかどうか私は知らない。しかし、私が知るかぎり、性だけを専門に扱うものは、小説であろうが、芸術であろうが、サロンであろうが、社会的には下層であり、異端者であり、忌み嫌われるべきものとされている。
では、性とは何か、誰れが人生において、これを、どうでもいいものであり、愚かしい人間の行為であり、社会的に重要でないものだと言うだろうか。
性が幸福や不幸の原因のひとつとなるほど重要なものだとは、誰れもが知っているのに、それを表現するものや、それを享受するものを遠ざけようとするのだ。
それがゆえに、性を描くものは三流であり、落ちこぼれであり、異端者となってしまうのだ。日本のポルノや官能小説が面白くないのは、一流の作家があまりにも少ないからなのだ。
新宿ゴールデン街からは多くの作家やマンガ家や政治家や哲学者まで生まれたと聞く。下北沢からも多くのアーティストが生まれたらしい。一流の表現者は、そうした街の、どちらかといえば場末の街の、場末の飲み屋から生まれるものなのだ。 |
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しかし、性における一流の表現者が集う飲み屋はない。自分の性を享受する場所はいくらでもあるが、しかし、自分の性を表現するためのアイディアを語り合ったり、それを実験的に試せる場所はどこにもないのだ。
このサロンは、そうした性の表現者たちが、集い、かつて、どこかの店で政治や哲学を語り合ったように、熱く思いをぶつけ合える場所になればと考えている。
偉そうに言っているわけではない。このサロンから、一流の性の表現者が出たとき、そのときに一人の読者となりたい、一人の見学者となりたい、と、それだけの気持ちなのだ。いいものが読みたい。いいものを見たい。ただ、それだけなのだ。
鹿鳴館執事 奥田忠志 |