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・・・・・・・・  序 文  ・・・・・・・・

 男として生まれてきたからには一度は書評家というものになってみたいと思うものだ。もし、人生において一度も書評家というものになってみたいと思ったことがないなら、その人は男でないか、からっきしの臆病者か、あるいは小説の嫌いな人に違いない。
  筆者も男と生まれ、子供の頃には森のケンカ屋と言われ、大人の頃には歩く三文図書館と言われ、さらに子供の頃には孤高の読書家とまで言われた男であるから、書評家にはなってみたかった。
  書評家として、牛と闘い熊を倒し、エベレストを目指したかった。
  しかし、すべては遅い。もう、書評家になるには体力がなさ過ぎるのだ。スピードがない。腕力がない。身体が硬い。
  そこで、せめて、書評家の真似事をして諦めようかと思う。

・・・・  序 文 その2  ・・・・

 書評とは何だろうか。グルメレポートとか旅行ガイドとか商品カタログとかのようなもので、その対象が書籍だから書評なのだろうか。そうだとすれば書評という文学はずいぶんと悲しい文学ではないか。書評というものが書籍のただの紹介なのだとすれば、それは悲し過ぎる。書評とはそんなものでいいのだろうか。しかし、書評が、作者に対する挑戦状になっていたのでは、これはあまりに大仰である。そんなたいそうなものでも書評はないだろう。
  では、書評とは何なのだろうか。
  他人の身体を借りて生きる寄生虫なのだろうか。本当にそんなものなのだろうか。確かに、書評というものは他人の書籍なしには成り立たないものなのかもしれない。それはそうだ。そして、そうしたものは文学とは言えないし芸術でもない。しかし、それでは書評は悲し過ぎる。あまりに悲しいので、書評だけで、しっかりとした文学になるようなものを作ってみたいと思った。
  と、そんな嘘を書いておこうかと思う。
  本当は違う。鹿鳴館が電子書籍を出版しようとしたときに、そのラインナップがあまりにも寂しいことになりそうなので、見せかけの商品を並べておいたらいいだろうとはじめたのだ。見せかけの商品を並べて売り切れにしておけばいいだろうと思ったのだ。電子書籍で売り切れというのも不思議だが、そこも面白いと考えたのだ。そんなくだらないことを考えるような輩なものだから、やりはじめたら面白くなってしまって、本末転倒して、ちゃんとした商品のないまま、書評そのものが作品化されてしまったのだ。
  そして、この冒頭が書かれたのである。ここまできたらいっそ空想図書館まで頑張りたい。


アーナンダー・ソーダ
『犬が西向きゃ尾は天翔ける』


(鹿鳴館出版局)

「人は育つように育つという物語」

 友情と根性と成功をテーマに書かれた勇気づけられる作品。どんなに落ち込んでいるときでも、この人の作品を読めば立ち直ることができる。
  その彼の作品の中でも、この作品は秀逸である。
  ストーリーは、血統正しいシベリアンハスキーの家に生まれながらペットショップのミスで太り過ぎのドーベルマンとして育てられてしまう主人公ブラングランが友人のポチやシロや太郎とライオン狩に挑戦し、ワールドドッグキングの座を手にするという、よくある話ながら、これが一行目から最終行まで息をもつかせぬほどの迫力で熱中させられてしまうのだ。
  普通なら、この手の小説は犬の愛らしさや忠誠心について書かれるところだが、この作品は違う。何しろ主人公の友人のポチはペンギンだし、シロはアヒルで太郎は北極熊なのだ。
  太り過ぎを気にしたブラングランが自分はドーベルマンではないのかもしれないと疑うシーンでポチが「でも、尻尾の無い犬はドーベルマンだから」と言うところなど、まさにギリシャ哲学に通じるところもあり、深く考えさせられる。
  続編には『犬が西向きゃ猫顔洗う』があり、また、別作品だが『犬は荒野でワンと言う』なども一読に値する。

ソーハイ・カナイヤ
『醜いペンギンの子はアヒル』


(鹿鳴館出版局)

「人生なんてそんな程度という物語」

 フランス文学の巨匠のアメリカンホームコメディの傑作。
  孤児だったメアリーがあるとき自分が資産家の孫だったと分かるというところから事件がはじまる。メアリーは祖父の家を訪れるが、そのとき、祖父はすでに死んでいて、祖父の遺産と古風な一軒の日本家屋を相続する。
  その日本庭園の松の木を伐ると、なんとその木はメアリーの父、日本のサラリーマン。父は祖父の悪戯で松の木にされていたのだ。
  祖父の遺産を管理する悪徳弁護士は松の木コレクター。彼は遺産よりもメアリーの父を狙っている。また、お手伝いのアンナンカはメアリーの味方ながら井戸に住む皿コレクター。これにメアリーに思いを寄せる犬の桃太郎殿様とメアリーの相談役で大親友の猫の犯罪者が加わり、ドタバタホーム劇が展開される。
  いっさいの殺人も恋愛も起こらないところがこの小説の面白さ。当然だがペンギンもアヒルも出てこない。

新谷 喫茶
『めめくらげ女とするめ男が日本をだめにする』


(鹿鳴館出版局)

「いいこと書いてあるのだ。作者以外は誰にも分からないだけで」

 自称社会学者が日本の若者のあり方を痛烈に批判したものだが、残念ながら、だからどうすべきかという考えはない。そうした進歩的な考えそのものをこの作者は批判しているのに違いない。
  一章のめめくらげ女は横断歩道を渡れない、では、著者の横断歩道は白いところ以外は踏んではいけないのに、それができないのがめめくらげ女だと批判する。
  二章ではするめ男は新宿嫌いで、一章とは違い、新宿のゴミ処理問題をカラスに任せるべきだと、唐突に主張する。
  これ以上、詳しく書くと書評が売り上げに影響しそうなので、後は買って読んでもらいたい。買うだけの価値のある新しい社会学の本なのだから。
  三章はどうして日本人はアメリカ人ではないのか。四章が若者よ西を目指して立ち上がれ。五章はめめくらげはよく眠る。
  最後の六章でめめくらげとするめ男についての定義がようやく明らかになるが、それは、くらげについてとするめについての話で、どうしてめめくらげ女なのか、どうしてするめ男なのかについてはついに語られないまま終わる。
  前作の「もっこし社会学」も難解だったが、今作も著者らしい難解さで日本の若者を痛烈に批判しているらしいことだけは分かるのだが、その批判の内容は分からないままだ。また、この作者について書かれたドングリ桃の木の「もっこしで社会は変えられない」も、同じぐらい難解である。
  難解だが、きっと、いいことが書いてあるのだから、皆、買っておくべきである。


南田 勘太
『二言目に真理』


(鹿鳴館出版局)

「経済と哲学のマリアージュ」

 彼の著作はいつも分かりやすい。彼を有名にした消防車大賞受賞作であるところの『ダブル常識哲学』は、人はどうして赤信号で止まってしまうのかという生活哲学を分かりやすく解説していた。その後の『政治エクソシスト』は、煎餅屋で大蛇を売ろうとすれば従業員は大福を食べてしまっても仕方ないというギリシャ以来の政治経済学を現代に置きかえて語った名著であった。
  今回は、彼の真髄、バカな読者に自分を賢そうに見せる方法について語っている。
「少し流行している英語に、どうでもいいけど衝撃だけある言葉を組み合わせて、それが新しい理論であるかのように書けば読者はバカなので、それを真理だと勝手に思うのだ」
  と、自らの理論の深奥について語る。
  クラウド凡人論とか変態サブプライムとか衝動アジェストとかブラックホール入浴法など、二つ合わせればそれらしい用語の解説を丹念に行っている。
  これさえ読めば誰でも知識人のふりをして当たり前の話を学問のように語ることができるようになるのだから嬉しい。
  これは余談だが彼の著作『アサリ売りは夜中に来ない』や『北極で成功したアイス屋はいない』などは、これからビジネスを志す若者のバイブルとなるのではないだろうか。

日陰 ひなた
『猫なのに』


(鹿鳴館出版局)

「小説に意味が欲しいだって、子供じゃあるまいし」

 室町時代に猫として生まれ平凡に日向ぼっこしていたミケは、拾った吉備団子をパクリと食べてしまったがために鬼退治の桃太郎一向に加わらなければならなくなったという不条理人情喜劇。
  桃太郎が「吉備団子食べてしまったからには鬼退治」と言うと、ミケは「猫なのに」と、答える。犬や猿は人間のために働くことを運命づけられているが猫は違うというわけだ。この理論がこの小説の面白さなのである。普通の作家なら話はそこで終わりだが、この作者の小説ではここから不条理がはじまる。そこがまた面白いのだ。
  猫は鬼退治などする気もないのだが、しかし、桃太郎の横にいる美味しそうな雉に魅了されてしまう。
「桃太郎さん、その、それは弁当ですか」とミケが尋ねると、桃太郎はミケが腰の吉備団子を見たと勘違いし「いかにも、これを食べて鬼退治。ついてくるなら、あげましょう」と、言ってしまう。
  ミケはここで「揚げましょう、揚げましょう」と、雉をてんぷらにするつもりでぬか喜び、このぬか喜びがまた作者の不条理の醍醐味となる。
  忠義の犬と勝手だが勇気ある猿と少し頭のよわい雉とそれを食いたい猫を連れての鬼退治、のはずだったのだが。その後、一行は、猪、鹿、熊、臼、蟹、亀、松ぼっくり、ひまわりの種、カブトムシなどを連れての大所帯となる。
  そして、鬼が島を前に桃太郎はかぐや姫と恋に落ち、当時のかぐや姫の旦那の金太郎と大喧嘩。
  このすきにとミケが雉を狙うと雉はびっくり逃げだし鬼が島に、追いかけた猫が鬼を退治し、宝を捨てて鮫を素揚げで食うという不条理。
  本当に不条理を書かせたら、この作家の右に出るものはない。

夏目 鉱石
『それでもサッカー部の女子マネジャーがカラヤンを大好きなままだったとしたら』


(鹿鳴館出版局)

「青春とはそんなもの物語」

「それカラ」と呼ばれて話題となり、最近、映画化が決定した誰もが知っているベストセラーである。
  廃部寸前の不良高校のサッカー部の美人マネジャーはカラヤンのファンで指揮者になることに憧れていた。彼女はカラヤンの「こうして私はオーケストラを変えた」という本を読んでサッカー部を立て直すことを夢みる。
「私がこのサッカー部を甲子園に連れて行ってあげる」
「サッカーで甲子園に行けるのかよ」
「大丈夫、私が指揮棒を振るから」
「サッカーって指揮者がいるんだっけ」
  そんな状態からはじまったサッカー部なので、当然だが、すぐに廃部、サッカー部の部員たちは、それぞれ不良のまま、ある者は刑務所に、ある者は運良く刑務所に入らないまま犯罪者となった。
  ただし、マネージャーだけは金持ちと結婚し幸せに暮らしたという話。涙なしには読めない愛と勇気と欺瞞の物語なのだ。


根琴 音亭絵
『芸術家になる七つの法則』


(鹿鳴館出版局)

「著者の名のまま、寝言は寝て言えの作品」

 日本を代表する昭和の女性格闘家がその格闘家としての半生から得た知識を利用し、芸術家として成功した人たちの誰もがやったことを一冊にまとめた本。これを読めば誰でも芸術家になれるはずだ。
  その内容は格闘家らしく実に分かりやすく整理分析されている。たとえば三章の「食事は一日に三度」では、しかし、どうしても忙しいとか朝に弱いなら二度、それも無理なら、せめて一日一回は食事をしようと、実に分かりやすい。
  また、女性格闘家らしく、おしゃれにも言及している。六章の「服の下には下着をつけて」が、それだ。服の下に下着をつけているなら、その下着や服には拘る必要がないと芸術家だけでなく人間としてのおしゃれの本質をついている。
  さらに八章では「寝たら必ず起きるように心がけて」と、もう、人間として、あるいは生命としての本質に迫っている。なお、九章では「整理能力は必要」と、どんなものも、きちんと分け、数を確認し、並べて置くことを提案している。
  七つの法則は全十五章なので、おそらく読者は十五から七つを選べば芸術家になれると、作者はそう言っているのに違いない。実に論理的で分かりやすい。
  著者もあと百年若かったら、これを読んで芸術家になったところだ。
  ああ、しかし、同じ作者の別の作品に「人間は百五十歳からが勝負」とか「二百歳から申請できるギネス」というのもあるので、まだ、諦めるのは早いかもしれない。

東 甜冠
『世界の裏側で愛を助けて 』


(鹿鳴館出版局)

「この小説を読まずにワイヤー小説を語るなかれ」

 難病の彼女を助けるために世界の裏側まで奇跡の医学を探す旅に出る若い左官屋の話。話はありふれた左官屋物語に過ぎない。難病も誰でも一度はかかると言われる三日麻疹が六日になった六日麻疹。
  ところが、これが香港小説得意のワイヤーアクション小説になると、ちょっとばかり話が変わってくる。何しろ、ページのいたるところにワイヤーがあり、これをうまくくぐり抜けて読まなければならないというのだから、その迫力は凄まじいものだ。
  香港では熱中した若者がワイヤー死するという事故もあり、五十歳以下の子供が読むことが禁じられたと聞く。
  最後は主人公の左官屋がアラスカ駅前の喫茶ラスカルで「世界の裏側ってどこだよ」と叫んで終わる。このセリフは世界中で流行語となり、その後、世界の裏側探しが挟み将棋会ではじまったとも聞く。
  筆者は残念ながら、この小説は読んだことがない。いや、そもそも筆者はまだ香港ワイヤー小説というものを一冊も読んだことがない。ぜひ、手に入れたいものだ。

アン・コローモチスキー
『人生は紙切れ三枚だ』


(鹿鳴館出版局)

「飛び出す絵本ではなく飛び出す台詞本」

 ロシア文学の最高峰と言われたアンの傑作をフランスの出版社がからくり本として出したもの。からくり本と言えば飛び出す絵本だが、この本は絵ではなく台詞が飛び出すのだ。
  ストーリーは単純でヨーロッパの貴族として生まれた太郎が敵対する国の王女桃子と結婚するまでの悲喜劇。ただし、この小説の凄いところは十行に一行の割合で決め台詞が出るというところなのだ。
  たとえば、太郎がシンクロエロ国に追われて断崖を逃げるときの太郎の従者ステッキー騎士の台詞は「下を見てはいけません。上にある希望を見るのです」である。また、太郎が桃子と出会うパーティのシーンでは「君は便所の花より美しい」だったし、それに対する桃子は「世界中があなたの敵だったとしても、私はあなたを探します」だった。世界中の敵なら見つけるのも難しくないだろうし、実際、太郎は太陽を五度傾けた罪で世界中の敵となる。
  これらの臭いわりに意味のない台詞がとにかく飛び出すのだ。
  現在、これを電子書籍化しているらしいが、当然、台詞は3Dで飛び出すのだろう。これは楽しみである。
  余談だが作者のアンは、この小説だけを世に出し、そのまま行方不明となった数奇な作家である。ところが最近「ところで台所にいるのはお兄ちゃん」や「葛飾で恋をしてアフリカ」や「狼は弱い犬にも吠える」などで知られるクリームニ・シタラスキーがアンと同一事物ではないかという研究論文が発表された。真相は筆者も知らない。何しろ、どちらの作家の小説も読んだことがないので。


クツゾ・コヌ・ケータ
『ポチを尋ねて三千里』


(鹿鳴館出版局)

「古今東西、冒険とはこんなもの」

 英国小説お得意の冒険もの。だがしかし、この小説ウはちょっと違う。普通は犬が飼い主を探して長旅をしたり、子供が母親を探して冒険をしたりするものだが、この小説では、中年のオヤジが子供の頃に飼っていた犬のポチはまだ生きているはずだと思いこんで探しまわるというものなのだ。  この小説、原題でも、日本語で三千里となっている。ところが日本は出てこないし、日本語の表記もタイトルだけなのだ。どうして、タイトルだけを日本語にしたのかは今もって不明で、文学者たちの間では今なお論争が盛んである。  その上、三千里を作者がどのような距離と考えたのかはしらないが、主人公は明かに何万里もの旅をしている。ただ、主人公には金鉱発掘で得た豊富な財力があるので旅は飛行機や船や電車を使い、他国では通訳を雇い、何不自由なくポチ探索している。冒険らしい場面は出てこない。  主人公が苦悩することろといえば、イタリアで中華は食べてもいいものかどうか。ロシアのマクドナルドは美味いかどうかというところぐらい。  生きているはずのポチは主人公が子供時代に飼っていた犬ゆえに生きていれば四十歳を過ぎていることになる。当然、犬は生きていない。最後は十七歳で死んだポチの墓の前で「もう少し早く来るべきだった」と泣き崩れて終わる。筆者も最後には感動の涙で文字が霞んで読めないことになるはずだ。残念ながら、この本、一度読むと自動消滅するために稀少となっていて、まだ、筆者も読めてはいない。

シルベネッガー
『途方の夕暮れ』
本のにある暗号を解いて近所のハムスター救出せよ

(鹿鳴館出版局)

「本物のスリルが感じとれる本」

 ハリウッドお得の戦争小説といえば仲間の救出。この小説は、まさにそれ。とこがこの小説のすごいのは小説の中にさまざまな暗号が隠されていて、それを解くことによってハムスターを本当に救出できるというところなのだ。
  隠された暗号は四つ。隠された地図が一つ。さらに、ハムスターの名前やハムスターの電話番号なども巧妙に隠されている。
  それら全てを解いて出版社に解答を送ると、出版社が近所のハムスターショップまでの旅費をプレゼントしてくれるのだ。あるいは近所にネズミが生息していそうな場所を教えてくれる。
  小説の内容はある国のテロ組織「イタチの尾」が誘拐した特殊部隊「ハムスターの牙」の元総司令官の救出に引退した元特殊部隊の精鋭たちがあたるというもの。
  ありがちだが政府も現役の特殊部隊も冷たい。そこで立ち上がり救出に向かうのは引退している仲間たちになるというもの。本当にありがちのストーリー。ただ、ネタバレにならないように核心は隠して書くが、最後は仲間が駆けつけた元司令官が監禁されていたはずの檻が設計ミスで大き過ぎ、元司令官はとっくに脱獄していたというもの。
  本当にありがちなのだ。
  なお、この本に隠された暗号は出版三十年目の今年も未だ解かれていない。もしかしたら隠し損なっているのではないかとの噂もある。いずれにしろ筆者は本を見たことがないので分からない。

作者不詳
『部屋とワイセツと私』


(鹿鳴館出版局)

「世界を震撼とせつづけている謎の小説」

 世界でもっともワイセツだと言われている出版物。何しろ、この小説はその時代その時代の美女の肌に直接印刷されているらしいのだ。ワイセツという意味ではこれほどワイセツな書物もないことだろう。
  内容は蛙の子がタガメの美女に手を出そうとして失敗、その失敗の経験から蛙の子は世界のあらゆる性のテクニックを学び、ついには彼によってエクスタシーに達しない生命なしと言われるまでになり、最後は雌の蛇に挑み、あっさり食われるという壮大な性の冒険物語らしい。
  もちろん、内容よりも、この出版物はそれが刻まれた女体にこそ意味がある。
  闇ルートで販売されるこの出版物は一部好事家の金持ちだけが所有しているという話なのだが真相のほどは定かではない。
  また、俗説だろうが、この小説、印刷されている女を性的に興奮させることによって、ようやく挿絵を見ることができるともいわれている。俗説である。確かめることもできない。何しろ筆者などにはお目にかかること不可能な小説であろうから。


鹿鳴館執事
『西向くバカの尾は長い』


(鹿鳴館出版局)

「愛は常に憎悪と共にあるというありがたいお話」

 鹿鳴館執事待望の「バカ論」がついに電子書籍によって刊行。多くを語るより、いくつかの小見出しを並べたほうが、この本のことはよく分かる。まず、一章の「バカとひよこの親はバケツ」で、バカというものの知識の作り方を痛烈に批判する。バカはひよこと同じで最初に得た知識を絶対と思うという理論なのだ。そして、二章が「バカは浅はか二度飯は食わない」なのだ。一章が理論なのに、二章は感情論的エッセイになってしまっている。そして、三章が「バカと迷子は頑固が原因」で四章が「バカに知らないことはない」なのだ。続く五章が筆者は好きなのだが「バカの枕詞は違う違う」というもの。この五章はただの「あるある話」になってしまっている。
 六章が最終章で「雄弁なバカ無口なバカ」という小見出しでバカの具体例が並ぶ。
 普通は、こうした悪口を書いたら作者は嘘にもバカに愛情を示すものだが、この本にはそれがない。作者はバカを憎んでいる。
 ユーモアなどカケラほどもない憎悪に満ちた本なのだ。

ハーマケイ・ジャパイプ
『裏窓のハム・スター』


(鹿鳴館出版局)

「ハムスターは可愛いようでも鼠」

 飼育されているハムスターが、あるとき、裏窓の向こうに集まる溝ネズミの存在に気づき、窓越しにショーをすると、これがたいそうな人気となり、遠くからもネズミがこのショーを観に集まるようになり、その噂を聞いたハリウッドが彼女をスカウトするも、彼女は飼育中ゆえ部屋から出られなかった。その苦境を乗り越え、彼女がハリウッドで成功するか、という話。
 この物語は、ストーリーだけを聞いていると、なんだかお決まりのメルヘンのように思えるが違う。この作者は飼育とは何か、飼い慣らすとはどういうことなのか、面倒をみることと悦楽的罰を与えることが飼育にどう影響するかなど、世の中の全ての飼育家に問題を提起している。
 主人公は雌のハムスターなのだが、その存在をまったく感じさせない飼育論となっているのだ。
 最後はネタバレになるので書かないが、ハムスターだと思ったものは実は鷲で、鷲になったハムスターが仲間を呼んで晩餐するという涙なしには読めない展開。晩餐のご馳走はもちろん。ネタバレになるので、もう書くのは止めておこう。

クリカーラ・ベシャリン
『寿司屋の地下でフレンチトースト』


(鹿鳴館出版局)

「無理と道理が仲良く食事をする小説」

 筆者は官能小説をずいぶんとたくさん読んで来た。その読書量は常人には考えもつかない年間三冊というハイペースなものだ。しかも読書は二歳から百十二年間、一日も欠かしていないので、その数はもう十を超えて数えきれたものではない。
 さて、そんな筆者がこれこそが官能だ、と選んだのがこの一冊なのだ。フランス文学に詳しい人なら彼女があの有名な『風の玉三郎』の作者だと知っているだろう。あんなおかたい料理小説の作家が実は、アルバイトで官能小説を書いていたのであるから、それだけでも筆者などはドキドキとさせられて、表紙を開く前に二度はオナニーできる。
 さて、その内容だが。
 パリの裏通りでひっそりと寿司屋を経営するスッシーナは、自分の店の地下に秘密のトースト屋を作り、毎夜そこでトーストを客にふるまっていたのだ。トーストは甘く、そこで出す紅茶も甘い。お客の中には変態もいてココアを飲む者もいる。物語はこのココアの香りからはじまる。
 売春婦でココア名人のアマケナーシの入れるココアはいつもジンジャーティーの香りがしていた。
「フレンチトーストを止めてドーナッツにするなんて、アメリカ人はスケベだね」
 そんなことを言って彼女はココアをいれるのだ。こんなエロがあるだろうか。この小説を読まずにエロと官能とフランス文学とコモドオオトカゲについては語ってもらいたくない。筆者はそこまで言い切る。スワッピングマニアには特にお奨めの一冊だ。


花戸小箱
『白雪姫と七人の金持ち』


(鹿鳴館出版局)

「貞操を守りつづけたところでいいことはない。
捨てたところでいいこともない」

 三十七歳の処女が公園で拾ったエロ雑誌から性に目覚め、八年間で世界の性風俗産業王となるまでの道のりを描いた長編性出世小説。
 彼女の出世を助ける七人の大金持ちたちには、それぞれ、呪われた性癖があった。彼女はそうした男たちの呪いを解くための性風俗店を作り、そこで、店に来るお客の中から賢者を探し、世界に七つあるという快楽下落の鍵を集めて行く。新しい風俗店を作る度に自らの性癖を変え彼女は店を成功させる。最後の性風俗店を開業し、これで自分が世界最大のセックス産業を抱える者となったと認識した日の夜、彼女はついに処女を喪失することを決意する。彼女が喪失のために選んだ男は三人。しかし、最初の世界の二枚目は勃起せず。二人目の世界のテクニシャンは直前に心臓発作。三人目は奥義を窮めた性の達人だったが、しかし、この老人はなんと、挿入なしに女にエクスタシーを与えることができる達人だった。
 三人の男がマッチの火の灯りのように消えると、彼女は飼っていた犬と天使とともに鬼が島に鬼退治に出かけることに。
 このストーリーには、実は、ビジネス成功の秘訣が盛り込まれていると言われている。そして、世界の成功者達はみな、この小説をオナニーになしに読んだとも言われている。
 金持ちになれると分かっていても、つい、オナニーしてしまうところのこの小説。これを鹿鳴館がベスト官能小説として推薦せずして、何を推薦すればいいと言うのだろうか。

作者不詳
『厠拾話集』
本のにある暗号を解いて近所のハムスター救出せよ

(鹿鳴館出版局)

「トイレの中にしかない会話がある」

 世界女子トイレ会話全集の日本版である。この全集はトイレから文明文化を語ろうとするものではない。だからといって、スカトロマニアのためのものでもない。女子トイレから文化人類学を語ろうとするものでもない。
 ただ、世界中の女子トイレに仕掛けた盗聴テープに入っているところのあらゆる会話の中から、性に関すると思われる会話だけを探し集めたものなのだ。
「あの短小部長、あたまにきちゃう」
「短小って、あんた見たことあるの」
「あるわけないじゃない。でも、あんな小心者のペニスは小さいに決まってるでしょ」
「じゃあ、総務のうすらボケ課長はふにゃデカチンだね」
 と、こんな会話ばかりが江戸、明治、大正、昭和三部、平成と時代ごとに収められているのだ。江戸時代の盗聴テープのことなど考えるような人には、この本の面白さは分からない。
 実はサロンの「朗読会」で、しばしば読まれる「女子トイレの会話」は、この本から採用したものである。
 これを鹿鳴館世界名作官能小説の中に入れるべきかどうかには異論もあった。何しろ、これは小説ではないのだから。しかし、それでも、あえて、これは外せないということになった。それほどの官能がこの本にはあるからだ。

作者不詳
『トイレ覗きはノックをしない』


(鹿鳴館出版局)

「犯罪ドキュメント小説の草分け」

 戦後日本最大のトイレ論争と言われた「ノックは無用」や「郵便配達でも覗きのときはノックをしない」などを中心とした「トイレ覗き論争」を集め、分かりやすく解説したもの。
 テレビ、ラジオ、雑誌などで行われた、当時のあらゆる覗き論争を一冊に集めている。そのページ数は六百ページ以上。集められた覗き論客は二十二人。トレイ覗きの美学や哲学。その方法論から、新しいトイレ覗きの手法としての盗撮の是非まで、その論争は多岐にわたる。
 印象的なのは、変態ドキュメント作家道端氏の最後のコメントだ。
「これだけの論争の中、覗かれた側の迷惑については誰も語っていなかったというのは驚きである」
 これは、ひとつのドキュメント小説であり、ひとつの官能である。