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官能文学辞典

テーマ小説「境界にあるバーにて」 ー第十二夜ー 【執事-5】
 右目の端にシェイカーを振る美しい女性の手が見えた。しかし、それを注文したお客の姿を見ることはできなかった。このバーの椅子は隣の人間の姿が見えないような作りになっているのだ。無音の店内に激しく氷のぶつかり合う音だけが響いていた。それは心地良い子守唄のようで、私はうっすらとした眠気の中に落ちて行った。
  抗うことのできない眠気は私を椅子深く沈める。沈めるのだが、同時にそれは宙の彼方に私を漂わせるような感覚でもあった。眠るような眠らないような不思議な状態を楽しむ。それがこのバーでの私の過ごし方だった。
  私は氷だけになったグラスの溶けた水を少し口に含んで胃の中から自らを正気にもどした後、そのグラスをゆっくりと自分から少し離れた場所に置いた。二杯目を要求するそれが合図なのだ。このバーでは、声を出してバーテンを呼ぶことは無粋とされているようだった。そうした決まりがあると聞かされたわけではないから、それはただ、私だけがそう思っているだけだったのかもしれないが、少なくとも私はそのようにしていた。
  必要最小限の会話で一人の時間を楽しむことがこのバーの粋な飲み方のように私には思えたのだ。
  バーテンは二人いた。右隅でシェイカーを振っているのは若い女性で、私のグラスを受け取ったのは初老の紳士だった。彼は氷をカウンターの下に捨てると、そこに新しい氷を入れ、ジンをシングルで入れると軽く掻き回して、私の前に置いた。同じものを入れるのかどうかさえ尋ねようとはしない。まるで儀式のように新しい酒を出すのだ。
  カウンターは左右に長く二十人ほどが並んで座れるようだった。不思議なのはトイレで、長い店の左右のいずれにもあった。まるで昔の映画館のトイレのようだった。思えば、このバーも一列しか客席のない映画館のようだった。
  だからこの店は静かなのかもしれない。お客はカウンターの中の芝居を楽しむのだ。音も動きも、そして、変わり行く酒の並びも。
  香り立つジンを舌でころがしながら、私はバーテンに「映画のようだね」と、言った。彼には私が何を言おうとしたかなど分からなかったはずだ。
「どんな人生だって、そりゃ映画のようですよね。問題は自分がお客なのか役者なのかということでしょ」
  彼はそれだけ言うと、別のお客の酒を作るために移動した。
  私がそのバーで聞いたもっとも長いバーテンのそれは台詞だったかもしれない。そういえば、このバーは何時で閉店なのだろうか。少し気になったが、それは確かめる必要もなかったので、私は二杯目のジンを飲み干してカードを手にした。勘定をしてもらうためのそれが合図なのだ。
  クレジットカードを中指と人差し指の間に挟み、カウンターに肘をつけて無言でバーテンを待った。なんだか自分が役者になれたようで気分が良かった。少し酔っているからなのだろうか、カードは私の前でゆっくりと揺れていた。

 

出典『境界にあるバーにて』サロンアンソロジー 鹿鳴館出版局

 


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