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官能文学辞典

2011 リレー小説 「まるで滑走路 地獄につづく」
スペード組 ②まき ③ああこ ④猛 ⑤猫咲 ⑥ぱらさ★┌(∵)┘


[鹿鳴館執事]

 私が知るかぎり記憶喪失というものは、こうしたものではなかったように思う。自分の名前は思い出せる。今、どこにいるのかも、はっきりと分かっている。私は中央高速を山梨方面に向かっていたのだ。問題はそこからだった。
  山梨方面のどこかに何かを届けに行くはずだったのだ。仕事の納品だったように思う。しかし、そこの記憶がなくなったのだ。自分の年齢、自宅の住所の記憶はある。飼い猫の名前も憶えている。結婚はしていない。夕飯に銀座木綿屋の天ぷらうどんを食べた。中央自動車に入るまでの首都高が事故で渋滞していたために、いつもの倍の時間がかかったのも記憶している。 中央高速に入ってからは車が流れたので、気分直しにとCDをかけた。渋滞情報を聞くためのラジオに飽き飽きとしていたのだ。CDから流れる曲に聞き覚えがなかった。こんなCDがどうして車に入っていたのだろうと思いながら見る景色に記憶がなかった。標識にある地名のいくつかも不可思議なものだった。
  私は軽い眠気を覚えて談合坂サービスエリアに車を入れた。地方からの帰りにトイレ休憩として、しばしば使っていた。馴染みのあるサービスエリアのはずだった。しかし、建物が新しい。まあ、そんなことは珍しいことでもない。施設など気付かない間になくなったり、また、できたりしているものなのだ。近所に突然できた空き地だって、そこに何があったかなど記憶していないものなのだ。記憶なんてそんなものだ。サービスエリアの記憶だって曖昧で当然というものだ。
  車を降りる前にスーツのポケットを調べた。財布はある。念のため中を思い出したが、きっかり三万七千円で記憶とあっていた。財布に免許証があり、その名前が自分の記憶する名前と一致していることに少し安心した。名刺のようなものを探したのだが見つからない。しかし、最近は名刺を持ち歩かないことも珍しいことではなくなっていた。馴染みの取引先に納品に向かうなら名刺を持っていなくても不思議ではなかった。しかし、思い出せないのだ。自分の仕事も、そもそも自分がどこに向かおうとしていたのかも。
  カーナビを使用していないところを見ると、慣れた場所に向かおうとしていたらしい。携帯電話にはたくさんの情報があったが、そこにある名前や住所にはいっさいの記憶がなかった。
  車を降り、フラフラと自販機に向かった。こうしたときには熱いコーヒーでも飲めば落ち着く、そう考えてコーヒーの自販機の前に立ったところで少し悩んだ。自分はコーヒーに砂糖とミルクを入れるタイプだったか入れないタイプだったかが思い出せなかったのだ。どちらと決めない人もいるのだろうが私は決めていたような気がした。決めていたように思うのに、それがどちらだったのかは思い出せないのだ。
  分からないならブラックがいいだろうと機械に小銭を入れた。軽快な音楽が流れ自販機のランプが踊っているが、その様子が私をイライラとさせた。光の点滅が神経を逆撫でするらしいのだ。
  その音楽に合わせるようにして携帯にメールが入った。仕事先から催促のメールでもあれば、どこに向かおうとしているのかを知る手がかりになると思い、あわててメールを開いた。
「帰りに黒焼きのトカゲを買って来るの忘れないでください」
  送って来たのは「と」だった。何といい加減な名前の入れ方なのだろうか。この「と」が誰なのかは思い出せないが、アドレスにそうしたいい加減な名前を入れてしまう自分の癖のことはよく覚えていた。会社の人間なのか、同居する家族はいないはずだったが、何しろ記憶が定かでないので分からなかった。
  コーヒーを飲むと苦かった。どうやら私は砂糖とミルクを入れるタイプの男らしかった。


[まき]

自販機の前で缶コーヒーを持ち、反対の手には携帯を握る私は、周りの人にはどう映っているのだろうか。いっそ「大丈夫ですか、顔色が良くありませんよ」とでも声を掛けて貰えれば良かったのだが、サービスエリアには人に構う時間の余裕がある人は居ないようだった。とにかく落ち着こうとコーヒーを口にした時、私はまた唖然とした。私はホットを飲んでいたのか、アイスなのか、それさえ思い出せないのだ。掌から私の体温が缶に伝わりコーヒーは得体の知れない飲み物に思えてきた。私はそれを乱暴にゴミ箱に投げ入れた。急速に恐怖が私の脳を支配し、私はパニックになった。「誰か!」誰かに向かって叫びたかった。助けが欲しいのに、私には電話の掛けようがなかった。未確認メールの存在を知らせるランプが眼に入った。先ほど届いたメールの件名「帰りに黒焼きのトカゲを買って来るの忘れないでください」このメールの差出人にメールを出すことを、私は思いついた。メールを必死に打ちながら、掌は嫌な汗で酷くべとついていた。

ああこ

Re: と 〈帰りに黒焼きのとかげを…〉
本文
今、談合坂サービスエリアにいます。
私はどこに向かっているのですか?
黒焼きのとかげはどこで売っていますか?
あなたは私とどういう間柄なのですか?

じわじわと染み出す汗で手がすべり指先が小刻みに震えるために何度もキーを押し間違えた。通常の数倍の時間を要しもどかしい思いをしたがディスプレイに「メールを送信しました」のメッセージを確認するとわずかに安堵を覚えた。若干落ち着きを取り戻した私は先ほどよりもしっかりした足取りで自販機から数メートル離れたベンチまで歩き、どさっと腰を降ろした。はたして「と」は私のメールに気付き返信してくれるのだろうか?つかめるものならどんな藁でもつかみたい心境の私は携帯電話を両手でぎゅっと握り締め祈るような気持ちでメールの着信を待っていた。ふと右横から何者かの視線を感じ顔をあげ目をやると右眼が金色、左眼がエメラルドグリーンの黒猫が行儀よく前脚を揃えてじっとこちらを見つめている。唇が勝手に動き「とわ!」と呼びかけると黒猫は消え入るような声で「ニャー…」と鳴き、少しの無駄も感じさせない動作でベンチから地面に着地するとあっという間に走り去ってしまった。


[猛]

 「とわ……」
  その場に立ち尽くしたまま、今度は呟いてみた。驚いていた、混乱していた、興奮していた。走り去って行った猫の奇妙な姿に、ではない。私はどうやらその猫の名前を知っているらしい、そのことが、私を驚かせ、混乱させ、興奮させたのだった。
  何かを知っているのかもしれない。この、自分がなすべきことを忘れてしまった世界について、私は何かを知っているのかもしれない。「人は何か大切なことを、知らないのに知っていると思いこんでいる」、若い頃、こんな格言を聞いたことがあった気がする。今の私は「何か大切なことを、知っているのに知らないと思いこんでいる」、奇妙な話だが、そんなところなのかもしれない。だとすれば、私が今しなければならないことは、「思い出す」ことだ。落ち着いて、思い出すのだ。私はベンチに座ったまま深呼吸した。空を見上げ、目を閉じた。記憶のイメージは、唐突に閃いた。
  それは無数のとかげだった。どのくらいの数だろうか。27匹まで数えたところで、私は数えることを諦めた。艶々とした光を放つ無数のとかげが黒い金網の上に置かれ、今にも火にかけられようとしている。どのとかげも同じように、しっぽの付け根から口まで串を突き刺されている。だが、串の先からは一滴の血も体液も滴り落ちてはいない。綺麗なものだ。まだ命の灯火は消えていないのだろうか、どのとかげも、何か言いたそうに口を開け、その艶々とした身体を微かに痙攣させている。光を受けて、串刺しにされた身体を一斉に痙攣させている、大量のとかげ。そんな残酷な光景が、なぜだか艶かしいものに見えた。その光景を見ていると、まるで自分の視界全体が光を放ちながら小刻みに揺れているかのような錯覚を覚えた。悪い気分ではない。私は軽い目眩に襲われた。
  「えっへへへへ、さぁてと、そろそろ焼きますか、えっへへへへ。」
目眩の中、声が聞こえた。低く、嗄れた声。そして、この艶かしい光景に不似合いな、下品な笑い。そうだ、ここはこの男がとかげを黒焼きにして売る店なのだ。この男が無数のとかげを集めてきて、血も体液も一滴もこぼさずに串刺しにして、そして黒焼きにして売っているのだ。
  「今日は小ぶりなのしか採れませんでしたがね、どいつもこいつも身が詰まってて、旨そうじゃねぇですか、ええ?えっへへへへ。」
私は男の方を見た。しかし奇妙なことに、男の姿は輪郭がぼやけた黒い影にしか見えなかった。どんなに目を凝らしても無駄だった。
  「えっへへへへ、さぁて、そろそろ火を点けやすぜぇ。旦那ぁ、早く買ってくれねぇとさぁ、ほれ、『とわ』の奴が全部くすねて行っちまいやすぜぇ。えっへへへへ。」
  姿は見えないのだが、男が私の背後にほんの一瞬だけ目を向けるのが分かった。男の視線を追って振り向くと、そこにはあの猫がいた。右眼が金色、左眼がエメラルドグリーンのあの黒猫が、金網の上の無数のとかげを見据えていた。
  「さぁてと、行きやすぜ、へっへへへへ……」
  男の下品な笑いが終わらないうちに、私の視界は真っ赤になった。金網の上の無数のとかげが、一瞬にして炎に包まれたのだ。燃え盛る炎の中、無数のとかげが、いっせいに同じように身体を反り返らせる。無数の身体が、一つの反り返る身体に見える。無数の断末魔が、一つの叫びに聞こえる。それはまるで、業火の中で絶頂を迎えて死んでゆく、一人の全裸の女だった。
  漂い始めた匂いとともに、記憶のイメージは、やはり唐突に終わった。こうしてベンチに座っていても、まだ鼻の奥には匂いが残っている。それは、たとえば爪や髪の毛が燃えるような、不快な臭いではない。無数のとかげに裸の女の姿が重なったためだろうか、どこか淫靡な匂いだ。
  匂いに軽く酔いそうになりながらも、私は冷静に考えてみた。「とわ」という名の猫にここで遭遇したということは、男の店はこの近くにあるのかもしれない。そうだ、この辺りを、少し探してみよう。
  私は立ち上がった。手がかりは、「とわ」という名の猫、男の下品な笑い、そして、この匂いだ。


[猫咲]

 イメージの中の、あの炎の上がり具合から考えると、建物内のフードコートなどで売っているとは考えにくい。このサービスエリア内で屋台でも開いているのかもしれないと、まず「とわ」の走り去った方へ向かった。
  心許なくはあるが手がかりを得て、足取りは僅かに軽かった。良い兆候だ。先ほどに比べて、頭が冴えてきている。何より、藁にも縋りたいこの状況で、黒焼きのトカゲを売る店を探すという当座の目的の出現は、暗闇を照らす灯台のように心強かった。事態が好転するのも時間の問題のように思われた。
  しかし、その淡い期待もすぐに打ち砕かれることになった。いくら探しても黒焼きのとかげを売る店などどこにもなかった。念のために建物内のショップも隅から隅まで探した。トカゲの焼けるあの淫靡な匂いはどこからもしてこない。漂っているのは、焼きそばやイカ焼きを焼く美味しそうな匂いだけだった。期待に膨らんだ気持ちは、急速に萎みかけた。
  煙草が吸いたくなった。どうやら私は煙草を吸うタイプの人間だったらしい。無意識に上着の内ポケットに手が伸びた。残念ながらそこに煙草はなかった。しかし代わりに携帯電話が手に触れた。そうだ、もう一度手に入れた情報を最初からよく考えてみよう。私は携帯電話のメールを開いた。
  そう、「と」から送られてきたメールには、こうあった。
「帰りに黒焼きのトカゲを買って来るの忘れないでください」
私には、夕飯を銀座で食べたあと山梨方面のどこかに何かを納品しにいく途中だという記憶は、辛うじて残っている。ここは中央自動車道の談合坂サービスエリア、上り方面だ。ということは「帰り」ではない。猫の行動範囲がどれほどのものかはよく知らないが、少し離れた下り方面のサービスエリア内に例の店があるということは、十分に考えられる。そうでなくても、あの黒猫がいたということから、高速道路を降りてすぐ近くで黒焼きのトカゲを手に入れられる可能性は高い。
  そこまで考えると、もう居てもたってもいられなくなった。とにかく、次のインターで高速道路を降りてみるしかない。あとは何かの拍子に思い出すかもしれない。
  萎みかけていた気持ちがまた膨らんだ時、新しいメールが入った。

Re: Re: と 〈帰りに黒焼きのとかげを…〉
本文
これは少しやっかいなことになりました。
どうやら記憶のパッキングを少し強くやりすぎたようです。
こう言われても今は何のことやら分からないと思いますが、大丈夫です。
致命的な問題ではありません。
あなたは行くべき場所には無意識に行けるはずです。
あとは、向こうのスタッフが万事うまくやってくれます。
「納品」が終わればすべて思い出せるでしょう。安心してください。
ただ、もう一度言いますが、帰りに、忘れずに黒焼きのトカゲを買ってきてくださいね。
これを忘れると大変なことになるので、念のために言っておきます。
あと、今は記憶を取り出せないと思うので、もうひとつ念のために言っておきますが、左右の目の色が違う黒猫にはくれぐれも注意してください。
見かけても接触は避けてください。
それでは、気をつけて。
この仕事が終わったら一杯やりに行きましょう。


[ぱらさ★┌(∵)┘]

空を薄いガーゼのような雲が覆っている。典型的な花曇りの空模様。まだ風は冷たい。
談合坂SAで車から降り、冷たい風で頭を冷やした。ここまで来ると目的地は、すぐそこだ。
あれから4か月になろうとしている。

前回の納品では、致命的な欠陥が見つかってしまい返品となってしまった。
納品するのは、ヒューマノイド。人間型のロボットである。

21世紀の初めから約1世紀に渡り発生した地球規模の地殻変動は、99%の人類を死に追いやった。地殻変動が治まった22世紀では、絶対的な労働力不足が課題となった。
各国が先を争ってヒューマノイドの開発に着手していた。骨格や筋肉や皮膚、神経線維などは人工物で代用が出来たものの、脳だけは未知の領域が多すぎるため作り出すことが不可能だった。
未来に希望を抱き、冷凍保存された21世紀の人々の脳が脚光を浴びたのは自然な成り行きだったのかもしれない。血縁者も死に絶え、無縁となった彼らの身体を再生するには費用が掛かり過ぎる。脳だけを再利用するという点で、彼らに新たな価値が生まれた。
過去に習得したスキル(車の運転や言語能力など)を活かし、不要な記憶はパッキング(封じ込め)してしまう。新しい記憶は、色や音、匂いとともに植えつけられる。それらの記憶は実在しなくても良い。何かの拍子にイメージとなって頭に浮かべば良いのだ。

談合坂SAの数十キロ先に甲州新都心がある。今では甲州新都心に向かう線が上り線ということになる。そこのヒューマノイド研究所が、目的地となる納品場所だ。東京湾埋立地にある試作工場から、そこまで無事に向かうのが試作品のテストも兼ねられた納品なのだ。
前回は記憶のパッキングがうまくいかず、脳の本来の持ち主の記憶が表出したり、新しく植え付けた記憶が消えたりと欠陥が発生した。

例の黒猫が現れた。この猫は、ロボットだ。味方なのか敵なのかわからない。ただ、この猫がメールの送信者「と」であることに、私は気付いている。

「黒焼きのとかげ」

これは、アナグラムだ。ローマ字にして文字を入れ替えてみる。
「と」が、黒き猫や!

車に乗り込む。
一瞬、パッキングされた筈の古い曲が、脳裏をかすめる。
「チューオーフリーウェイー」

典型的な花曇りの空模様。春は近いのかもしれない。



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