その3.
筆者はしばしば誤解される。もっとも多い誤解は筆者の身長が低いという誤解である。誤解なのだ。本当は筆者は長身なのだが、このイケメンの上に長身では 嫌味なので少し低く見せているだけなのだ。それを背が低いと誤解されてしまう。そもそもイケメンというところも誤解されていることがある。もし、筆者を見 てイケメンでないと思ったらそれは誤解である。
その誤解なのだが、筆者は、しばしば、小説が好きな読書家とも誤解されるのだが、それも誤解である。筆者は有名な小説嫌いなのだ。それは筆者を よく知るところの筆者自身に訊けばよく分かる。彼は筆者が編集者時代においてさえ、あまりに小説を読まないので困ったと語っている。しかも、その理由が、 官能小説で面白いものは女性がペニスについて語るシーンだけだし、その他の小説で面白いのはドラゴンが出てくるシーンだけだ、と、言っていたらしい。筆者 について詳しい関係者の話だ。
恋愛小説だろうとミステリー小説だろうと筆者はドラゴンの出現を望み、恋愛小説では机にドラゴンが置いてあるだけでいい小説と評価するほどだったとその関係者は語っている。
何を書きたかったかというと、ドラゴンのことなのだが、これは書くと長くなるのでサロンのことを書こう。
小説嫌いの筆者がサロンで「読書感想会」なるイベントに参加しているのである。それは不本意なイベントなのだ。しかし、筆者にとって不本意なイ ベントがあること、それに不承不承、筆者が参加していること、それがまさに鹿鳴館サロンなのである。鹿鳴館サロンにあるもの、鹿鳴館サロンで行われるこ と、それは筆者の好むところとは無縁のものであり、無縁であるがゆえに意味があるのである。
では、どうして読書感想会というイベントがサロンには存在しているのか。
それは、鹿鳴館には「SMは非日常におかれなければならない」という思想があるからなのだ。
サロンに集い、会社の愚痴がはじまり、仕事の自慢話がはじまり、家族の話、そして、グルメ、旅行、スポーツ、そうした話の合間に縛ったり、鞭を振ったり、それは鹿鳴館の考えるSMとは別のものなのである。
日常の延長におかれる安いSMを鹿鳴館は否定しているのである。
よく筆者は新橋のガード下、という表現をするが、そこはまさに日常の延長にある夕刻を象徴しているものなのだ。その新橋のガード下の飲み屋でやっている会話の後では、もう、SMはしたくない、そうした夜はむしろカラオケや痴漢が似合う。
非日常の象徴が鹿鳴館サロンにおいては、小説について熱く語ることだったのである。筆者は出版というところで仕事をしていたのだ。三十年もそこ で仕事をしていたのだ。ところが、それでさえ、めったに小説の話などしなかった。出版にいてさえしない小説の話。その非日常の向こう側にあるからこそSM は怪しくなるのではないだろうか。
それが鹿鳴館サロンの求めたSMだったのである。
鹿鳴館サロンは「日常から隔離された現実逃避の快感こそがSMの快感なのだ」と、考えているのである。
鹿鳴館サロンは「秘められなければどんなワイセツにも性的刺激を受けない」と考える者たちの集うところなのである。
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