鹿鳴館サロン
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官能文学辞典


   その1.                        
   その2.                        
   その3.                        
   その4.                        
   その5.                        
   その6.                        
   その7.                        
   その8.                        

 


その7.


 サロンの大きなコンセプトのひとつにシェアというのがある。鹿鳴館におけるこのコンセプトの本来の意味は生け贄を共有しようとするものだった。昔は、M はSに比べて圧倒的に少なかった。ゆえに、一人のSがMを見つけたら、それをシェアしたのである。たまたまMのいないSにたまたまMを所有するSがプレイ の練習や縛りの練習用にと自分のMを貸したのである。
  それは鹿鳴館のコンセプトとして今も生きているのだ。
  ただし、鹿鳴館サロンが作られた頃には、MよりもSが不足気味だった。ゆえに、生け贄を共有しようという発想はなくなっていた。しかし、シェアという発想は残っていた。
  先日、ある常連の女性がサロンのチーズを食べながら、このチーズは美味しいけど、どこのだか聞かないことにするわ、聞いたら買っていまうから、 と、言った。買えば食べてしまう。食べてしまえば太る。だから買わずにサロンでわずかな量を食べることで満足しようとするわけだ。
  サロンに美味しいお土産を買って来てくれる人の中にもそうした発想の人がいる。家に買って帰れば全部食べてしまう。食べずに捨てればいいことだ が、そもそも食べ物を捨てるのには罪悪感がある。しかし、少しは食べたい。そこでサロンにお土産として買って来て少し食べて皆に振舞うのだ。
  美味しいお酒。本。縄。鞭。そうしてサロンには贅沢な物が集まって来るようになったのである。
  美味しい物を皆でシェアして食べる。これは現代的な贅沢なのだ。そして、それがサロンなのである。食べ物、飲み物、部屋、道具、本、知識、そして人間をシェアするのが鹿鳴館サロンという場所なのである。
  女性がいて接待するようにプレイの相手や話相手をしてくれる場所、縛りの相手をしてくれる場所、そうしたものはサロンではない。筆者がいることや舞衣さんがいることがサロンなのではない。
  サロンという空間を皆が共有し、共に維持している、それがサロンなのだ。
  筆者はゆえに何度も語っているのだが、筆者を嫌いな人がいなければサロンには意味がないのだ。仲良しサークルではなく、ただの空間である以上、筆者を好きか嫌いかは関係がないのだ。筆者が嫌いでも、サロンにある一冊の本が凄く好きな人はサロンに居るべきなのである。
  もしかしたらSMが嫌いな人がサロンにいてもいいのかもしれない。最近はそんなことまで考えるようになった。空間は変容するのだから。


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