筆者はすっかり退屈しきっていた。SМも野外露出もスカトロも何もかもが一度体験してしまえばそれでいいようなものだった。鞭にも緊縛にも、たいした技術は必要とされなかった。それを御大層なことのように言う「縄師」だとか「緊縛師」という人たちが出て来たが筆者は、そうした人たちとは一緒にはなれなかった。
おそらく筆者は三文小説は書きたくても、三文芝居はやりたくなかったのだと思う。SМは三文小説だ。しかし、SМを三文芝居にしてはいけない。筆者は確かにそう考えていた。理由はかんたんだ。SМは妄想であるかぎり、その妄想した場所がたとえ牢獄であったとしても壮大な城の中の出来事として描けるからなのだ。しかし、芝居では無理なので、どうしてもSМが安普請となってしまうのだ。筆者は三文芝居は好きだった。アングラの芝居なら新宿の公園通りあたりで嫌というほど観ていた。しかし、それをSМがやってはいけないと思っていたのだ。なぜなら、SМは高級でなければ面白くないと考えていたからだ。つまり、三文芝居でベルバラは出来ないが小説なら可能、漫画なら可能と、そうしたことだったのだ。そして、ベルバラを芝居でやりたいなら宝塚ぐらいの大事でなければならないと、そうしたことだったのだ。
この考えは今も変わらない。だから鹿鳴館サロンは、緊縛鑑賞会のようなこと、つまりショーのようなことにはかかわらないのだ。掘立小屋で芝居はしない、しかし、掘立小屋の中で豪邸を空想してやる、と、それが鹿鳴館サロンなのだ。
ところが、その当時の筆者にはそこまでの思いがなかった。そのため筆者たちが生の女の裸に浮かれている間に空想は手の届かない遠くに追いやられていたのえある。マニア雑誌では知性も高級も作れなくなっていたのである。筆者たちはリアルを求め過ぎて空想の方法を忘れてしまったのだ。
SМ界の重鎮の誘いを受けておいて筆者はどうしようもなくつまらない仕事をしてしまって彼を裏切ることになるのは、そこに原因があった。金のためにはリアルを求めるしかなかったのだが、それ以上に筆者に空想を取り戻す力がなかったのだ。
そのどうしようもなくダメな筆者の子供時代の空想を揺り起した男がいた。その男がサイト鹿鳴館を作った男だったのだ。筆者がマニアの重鎮を裏切って彼との仕事に有頂天になったのは、そのためだった。
彼はハリボテを筆者に教えたのだ。