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官能文学辞典

窓の向こう側

 子供の頃の私は、全ての窓の向こう側には家庭があると思っていたのだろう。工場や商店にも窓はあったが、私の子供の頃には、工場は家の裏にあり、商店の二階には家があるものだったのだ。つまり、昼は仕事場の顔をしているが、夜になると家庭としての顔に変わるもの、それが工場であり商店だったわけだ。ゆえにそこにある窓はやっぱり家庭に通じていた。
  そして、窓というものは、本来は、その役割として、室内から室外に向かうものなのだが、私にとっては、室外から室内を覗き見ることのできるものという認識があった。私は、窓の向こう側に必ずあるはずの生活が見たかったのだ。
  もちろん、生活の一部はワイセツだった。下着姿のまま掃除する奥さん。窓が開いていたことを知らずにうっかりタオル一枚まいただけの姿で部屋に現れるお姉さん。もっとワイセツなものも窓の向こうにはあった。
  しかし、私が窓の向こうに求めるものはそれだけではなかった。テレビを観て笑う家族。弟を殴る姉。食器を並べるお母さん。酒を飲みながら新聞を読むお父さん。そんなものも私は覗き見ていた。覗き見たいと望んでいた。
  私にとってのワイセツは窓の中のいかがわし身体や行為ではなく、窓そのものだったのである。
  もし、私がとびきりの美女とホテルの部屋に入ったとしよう。そのホテルの窓から向かいの小さなアパートの窓が見え、半分開いた窓と風に揺れるカーテンの隙間から、タオルを巻いて髪にドライヤーをあてる女が見えたとしたら、私は、その窓が気になるのだ。今、まさに自分の前でワイセツ過ぎる陰部を晒さんとする、とびきりの美女、アイドルクラスの美女を前に、私は向かいの貧しいアパートの女に魅了されるのである。手を伸ばせばそこにある最高級の裸体より、決して手を出すことの許されない窓の向こうにある半裸の女に私は熱中するのだ。
  また、私は、もし、窓が二つあり、一方の窓に絶世の美女が着替えをするのが見え、一方の窓では解剖図鑑のペニスでオナニーできないかと思案する若い女がいるなら、そのいずれも均等に覗くのに違いないのだ。
  私は窓ほど公平に性を享受したことがない。生来の邪と意地汚さと差別主義がある。トップモデルとクラス一番の嫌われ者の女の子に同時にデートに誘われたら間違いなくトップモデルを選んでデートに行く。そのくせ、クラス一番の嫌われ者でも相手が彼女しかいなければきっとデートに行く。そんな程度の男なのである。
  それがその二人が窓の向こうにいたら、私は二人に優劣をつけられなくなるのだ。だから私は窓が好きなのだ。窓のこちら側にいるかぎり私は綺麗なままいられるのだ。この世の汚いものの全てはあのガラスの防犯にはならないようなささやかな仕切りの向こう側にあるのに違いない。それを私はもっとも安全なまま享受できるのだ。
  私が子供の頃よりさらに昔。日本の東北地方では真冬には雪が二階まで積もり、それがゆえに真冬には窓から出入するのだ、という記述があった。私は、今でもその話にほのかな性的興奮を覚えるのだ。この話にはたいしたエロティシズムもないはずなのに、私にはそれがたいそうエロティックな幻想となっているのだ。
  窓は不思議である。その向こうにはただの生活があるだけだというのに、窓はどこまでも他人の侵入を拒むものなのだ。もしかしたら素手でも割ることができるかもしれないほどの脆さで人を拒む。拒まれて私はそこに憧憬する。
  窓はまったくエロティシズムそのものなのだ。

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