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官能文学辞典

窓と灯り(その3)

「あれだ」
  私は子供が宝島でも発見したように興奮していた。その建物の門をくぐり、すぐにも冒険に行きたいような高揚感があった。もちろん、大人の分別がそれを許さなかった。
  彼女は私の後ろにいて少し私に寄り添うように「同じだ」と、つぶやいた。風俗嬢と取材記者という関係だったからだろうか、私たちは一緒に暮らしながら性的関係をもたなかった。取材対象に性的なものを感じなくなっていたのだ。ところが、背後から私の腕に抱きつく彼女によって、私は確かに性的な高まりを感じていた。
  私は、その瞬間、はじめて自分たちが普通の恋人のような関係になったのだと感じたのだった。おそらく彼女もそう感じたはずだった。
  まだ時間が早く、その部屋には電気はついていなかった。
  彼女は電気がついたところを見たいと言い、私たちは駅前にもどって居酒屋に入った。そこで十一時まで時間をつぶし、電気がついたその部屋を見てから帰ろうということになったのだ。
「私の田舎にも同じ部屋があったの。建物も違うし、部屋も違うんだけど、でも、なんとなく分かったの。あれは確かに同じ部屋なんだって」
  思えば、私は彼女が家出して都会に出て来た以外の事情を聞いたことがなかった。あまり興味がなかったのだ。彼女の家がどんな家なのか、家族は、彼女がそこでどんな生活をしていたのか、そのいっさいを私は知らなかった。
「小さな村でね。その村に生活している人はたいていが顔を知っているの。本当に狭い村なの。見る家のことは何だって知っているの。何をしている家か、家族は何人か、最近、長男が結婚したとか、次男は家出してるとか、嫁が意地悪だとか、何でも知っているの。聞こえてしまうの。それが普通だと思ってた。そんなことが窮屈でなかったの。でも、その工場の二階の隅の部屋のことだけは知らなかったの。工場は革製品を作っていて、二階はその家族と従業員が生活していたの。従業員は若い男の子たちで、その人たちのことも知っていたの。でも、二階の隅の部屋に住んでいる人はいなかったし、その部屋のことだけは聞いてはいけない気がしたの。誰にも聞いてはいけないって、そんなふうに思ったら、急に怖くなったの。従業員の男の子たちの部屋の電気が消える頃にその部屋には電気がつくの。それを知ったのは中学生になって夜遅くまで起きているようになってからだったかな。私の部屋からギリギリ見えるその灯りのことが気になって。男の子たちとは仲が良かったから、誰がどの部屋にいるという話は聞けたんだけど、誰もその部屋のことを話そうとしないの。直接そのことを尋ねるのが怖くて、いろいろ遠回しに話をするんだけど、皆、そんな部屋なんか存在していないかように話をしないの。それが余計に怖くなって。それでね。私の恐怖はある時、逆転したの。私が怖いのは何でも知っている村にいることだって。誰がどんな暮らしをしているのか知らない部屋があることが怖いんじゃない。どの部屋のことも知っているような暮らしが怖いんだって。他人の暮らしを知らないことを怖がるのが怖いんだって思うようになったの」
  彼女はその恐怖で家出を決意し、高校卒業と同時に都会に出て来たのだと言った。都会ならどの部屋のことも気にする必要なんかないと思ったらしいのだ。
  私たちは十一時を待って再び、その部屋を見に行った。部屋には灯りがついていた。ただそれだけだった。
  それから三年の間、私たちは恋人のように楽しく暮らした。あの部屋の話は二度とすることはなかったが、しかし、たくさんの話をするようになった。私はそのまま彼女と結婚し平凡に子育てをする自分をイメージしていた。ところが、三年後の夏、私が地方取材の出張から帰ると私の部屋から彼女の荷物のいっさいがなくなっていた。書置きも何もなかった。一緒に住んでいた女性の痕跡が突然になくなった、とそんな感じだった。。
  だからというわけでもないのだろうが、私は、彼女がいなくなってからもう一度、あの部屋を見に行った。しかし、その時には、それこそ、あの部屋も私の住んでいたアパートも、近所の公園も文房具屋も何もかもがなくなっていたのだ。
  何だか全てが夢だったように思えた。自分がそこに暮らしていたことさえもが間違いだったような気がした。その一方で、おかしなことも空想した。彼女はどこかの部屋でひっそりと暮らし十一時に灯りをつけているのではないかという空想だった。どうしてそんなことを考えるのか、その理由は分からない。不思議な空想だった。しかし、その空想は今でもたまにすることがある。そして、その空想は私に性的興奮をもたらすようになった。
  今となっては遠い過去の話で、何もかもが空想だったようにさえ思えるのだが。

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