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官能文学辞典

テーマ小説「境界にあるバーにて」 ー第四夜ー 【執事-1】

 

 葉巻とモルトウイスキーのロックが目の前に並べられる。私がいくらぐらいの葉巻をやり、いくらぐらいのモルトを飲むのか彼はよく分かっているのだ。分かっていて、彼は私の予算の内で、その日、私がもっとも欲している味の葉巻とモルトを、黙って二つ並べるのである。そして、少し遅れて灰皿が置かれる。このタイミングが大事なのだ。葉巻に火をつけ、一服くゆらせてからモルトを舐める。飲んではいけない少し舐めてテーブルに戻す。このタイミングで灰皿が置かれるので、二服目はやらずに灰皿に葉巻を置く。紫の煙が踊る様子を楽しむことは煙を口に入れるよりも大事なことなのだ。
  紫の煙がバカバカしい私の日常をあざ笑う。左右に長いカウンターだけの店。どれほど地下に降りたのか分からない地中深いバー。カウンターの中には老いた紳士と若いがあまり愛想のない女性がいるだけで、彼らは決して私を笑ったりはしない。笑わないかわりに私に興味を持つこともない。その冷たい優しさはまるでこの店そのものなのだ。
  立ち上る煙を見ているとカランとグラスの中で氷が落ちる。頃合いを知らせる合図なので冷たくなったモルトを今度は胃に流し込む、そして、香りを鼻に抜く。一服目の葉巻の味とモルトの香りが鼻腔の奥でブレンドされる。目を閉じて日常を忘れる努力をする。努力で忘れられない日常はない、そう教えてくれたのはこのバーを私に教えてくれた先代の社長だった。葉巻もモルトの飲み方も彼に教わった。一生を彼に捧げて働くつもりだった。
  しかし、彼はあっさりと死んでしまった。後を継いだのは私より七つ年下の生意気な男だった。仕事もできず、能書きばかり言い、仕事よりも説教の長いような男だった。社員は一年で半分入れ替わった。仕事は一年でほとんどなくなった。社長の側近として鍛えられた私は閑職に追いやられた。
  氷を鳴らしてモルトを流し込み、ゆっくりと葉巻の煙を口に入れる。極上のスモークサーモンを食べたような感覚に空腹が刺激される。しかし、この店には食べ物はない。食べて飲むのは粋じゃない、と、これも先代の社長の口癖だった。
  空になったグラスを少し前にずらすと美しい手がそれを取って新しいモルトを入れて返す。
  二杯飲んで私はこのバーを出る。ここは地獄のように深いところにあるが、私は自分が出て行く地上こそが地獄のように思えて、席を立つのをためらってしまう。それでも立たなければならない。三杯も飲むならショットバーに来るな、と、これも先代の社長の口癖だった。
  覚悟を決めて席を立とうとすると、背後に人の気配を感じた。誰かがトイレに向かったのだろう。私は隣の人の顔も見えないような背もたれのある深い椅子に座り直した。トイレは左右どちらにもある。その人がどちらに向かったのかは分からなかった。分からないような構造になっているのだ。
  トイレに立った人のおかげで私の安らぎは少しだけ延長された。

 

出典『境界にあるバーにて』サロンアンソロジー 鹿鳴館出版局

 


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