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官能文学辞典

テーマ小説「境界にあるバーにて」 ー第八夜ー 【久美子-2】

 

 この店を初めて訪れたのは、私が二十三の時だった。その年の春、私は右目を失った。突然のことだった。せめて少しずつ光が閉ざされていたのなら、私もあれほど混乱することは無かったのかもしれない。このバーを知ったのは、ちょうどそんな時だった。紙切れのようなビルとビルとの隙間の果てに、このバーは存在していた。長い階段を転げるように降りた先には、三つの踊り場があり、私はそこで、何度も足を止めた。一番恐ろしかったのは小さな池に掛かる木の橋で、右目の無い私はふらふらと不安定な身体を両腕で支えながら、慎重にその橋を渡った。池に浮かんだ水泡が、まるで失った目玉のようにギラギラと光を反射させていた。
  目の前には、波のようにうねったやたらと長いカウンター。そこにいた初老のバーテンには、何だか懐かしい雰囲気があった。それまでの不安が嘘のように消えていき、私は深い椅子に身を委ねた。長い前髪をかき分け、よく知りもしない酒を注文した。私の醜い顔を見ても、バーテンは眉ひとつ動かさず、笑みを浮かるだけ。だが、それが心地よかった。何よりも不思議だったのは、もう紙切れにしか見えないと思っていた世の風景が、その場所だけはやたらと鮮明に、立体的に映ったことだった。
  酒の飲めない私は、バーテンが作ってくれた名前も知らぬそれを、残った左目で、ただじっと眺めていた。時にグラスを持ち上げ、光にかざしてゆっくりと回してみた。すると中の氷に光が反射して、まるで失った光が戻ってきたかのような感覚に陥るのだった。そんなことを繰り返している内に、バーに居る時間は長くなっていった。酒を飲むわけでもなく、バーテンと話すわけでもなく、私はただ、失った右目の光を求めて、このバーに通っていた。いったん椅子に身を沈めると、立ち上がることが億劫でならなかった。家に帰ったところで、さめざめ泣くくらいで特にすることもない。もう右目は無いにも関わらず、その空洞は、ポロポロと涙を流すのだ。それがどうしようもなく情けなかった。バーに居る限り、私は泣く必要がない。もしも涙が溢れたとしても、バーにいる間は、私の右目は存在しているのだから、きっとそれは許される涙に違いなかった。
  帰りたくない。そう思うことが余りに増えたので、私はひとつ自らにルールを課した。一度でも席を立ったら、決して椅子に戻らないこと。どんなに右目と戯れていても、排泄はしたくなる。それが終了の合図なのだ。思えば涙といい、排泄物といい、私の肉体はどうして私の意思を裏切ろうとするのだろうか。
  その日も二時間ほどで、私は席を立つことになった。カウンター後ろの狭いスペースを通ってトイレに向かう。トイレは左右どちらにも有るのだけれど、私が使用するのはいつも左側のトイレだった。
  温めの水で手の平を清め、私は会計に向かった。初老のバーテンは相変わらず笑を浮かべていた。ここはいつまでも変わらない、そんな安心感を与える笑みだった。
  行きと違って、帰りの階段は長くて苦しい。世界が再び紙切れに戻り、右目はただの空洞に戻った。右目を失って五度目の春を迎えようとしていた。二十八になった私は、寂しげに光る左目の行先を考えていた。

 

出典『境界にあるバーにて』サロンアンソロジー 鹿鳴館出版局

 


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