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官能文学辞典

テーマ小説「境界にあるバーにて」 ー第十一夜ー 【執事-4】

 

 家にいても一人なのだから、たまに飲みに出たときぐらい賑やかな店を選べばいいようなものなのだが、人が苦手なのか、私は、結局はこの地下深い店に来てしまうのだ。
  地下三階か四階、あるいはそれ以上もあると思われる深さで、その深さににもかかわらず、店までのエレベータはなく、ビルとビルの狭間の通路から細い階段をひたすら下りて来なければならない。下りはいいが昇りは老体には堪える。それでも私はこの店に来る。決して安いわけでもない。少ない年金を工夫して生活をきりつめて、そして、この店に来るのだ。
  もっとも、この店に来る以外の楽しみというものもないので、月に一度か二度のバー通いぐらいは許されるだろう。ささやかな老人の楽しみなのだ。
  左右に長いカウンターだけのバーだった。まるで、若い頃に見た長距離電車の食堂車のようだった。
  バーテンは二人いるが、どちらにも愛想はなく、愛想のないかわりに気配りはよくできていた。初老の男のほうは私と同じぐらいの年齢か私より少しばかり年上かもしれない。女のほうは、おそらくは私の孫ぐらいの年齢だろうか。いや、どこかにいるはずの私の孫ぐらい、と、そう言うべきかもしれない。
  酒と博打に明け暮れる私を残し、女房は幼い子供を抱えたまま家出をしてしまった。離婚届が送られてきたのは家出の二年後、子供が小学校に上がる少し前のことだった。名前を書いて指定の住所に送ると同時に、私はその住所を訪ねた。子供の顔が見たかったのだ。しかし、その住所は女房の友人のものらしく、結局、女房の手がかりはなかった。もっと真剣に調べれば、いろいろ手はあったのかもしれないが、その頃の私はそこまでする気にはなれなかったのだ。その後、二十年も経った頃には、たいそうな努力をしてみたのだが、そのときには、あまりに時間が経ち過ぎていたのだ。
  酒と博打、自堕落な生活だったが、会社だけは辞めなかったので、孤独で寂しい老後となった。定年まではそんな人生に後悔はなかったのだが、定年してみると急に寂しくなった。そして、定年してみると酒は相変わらずだが博打のほうには、すっかり熱意がなくなっていた。
  バーボンのロックをくいっと喉に流し込む。胃が焼けるように痛み、痛みが熱となって私の全身にこびりついていた孤独を蒸発させる。女のバーテンが二杯目のバーボンを差し出す。絶妙なタイミングなのだ。彼女に今の生活の寂しさを訴えたいと思うが止めておく。若い頃の失敗を聞かせたいと思うが止めておく。彼女の私生活について尋ねたいようにも思うがそれも止めておく。
  二杯目のバーボンをくいっと飲み干して「お勘定を」と、それだけ言う。数字だけの優しい会話が交わされる。年齢か名前ぐらいは尋ねてもいいように思うがそれも止めておく。
  勘定を終えると私は左右に二つあるトイレのどちらに行くかを考える。どちらかのトイレを選ぶこと、それが私の楽しみなのだ。その日は右側のトイレに決めてそこに向かった。深い椅子の後ろの細い通路を歩いても椅子に座る人たちの様子を伺うことはできない。通路は細いといっても歩いていて椅子に触れてしまうほどではない。椅子の下に置いてある鞄やコートなどで、なんとなく椅子に座る人を想像しながら、私はトイレに向かい、トイレから出たら挨拶をすることもなしに、黙ってドアを出る。
  ドアを出れば長い昇り階段がまっている。バーボン二杯までなら、私は、まだまだそれを昇ることができる。昇りながら、いつも同じことを考える、カウンターの向こうにいた、あの娘が実は自分の孫なのではないかと。何の根拠もないし確かめる気もないのだが。

 

出典『境界にあるバーにて』サロンアンソロジー 鹿鳴館出版局

 


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