テーマ小説「境界にあるバーにて」 ー第六夜ー 【舞衣-1】
あー気持ち良い。快適快適たまらない。ハイヒールの足をふわりと柔らかく受け止めてくれる床、身体との境目を忘れさせてしまうソファ、熱くも寒くもなく温度も湿度も感じさせないムラのない空調、薄く流れる音楽の向こう側でごく軽い波の音のようなものが聞こえるのは空調の音?これもまた私をゆったりと安心させてくれる。
なんて居心地の良い空間。
「アレキサンダーを」
私はいつものカクテルを飲む。べっとり甘いチョコレート味に脳が浸食されゆっくりほんわかと酔いが回って上下左右がどうでもよくなる。そういえばこのお店って横長だっけ縦長だっけ、まぁどうでもいいやそんなこと。くるくる回ったりうずくまったりお行儀悪くても隣りが遠いから叱られないのよくるくるすやすや。
しゅるしゅると私が抜けていく。
カウンターの向こうで微笑をたたえている女性はワタシ?まぁどうでもいいやそんなこと。
ずっとここにいたい。
つま先にひっかけたハイヒールをブラブラ揺らして、脳みそグルグルまわって、ふらふらくらくら。トロトロと快適を貪って……ゆっくりと沈むような眠気に包まれてきたそのとき、私のポケットの中で「ピピピっ」と音が鳴った。
安穏が砕かれ、失った輪郭が戻ってきた。
もぅ!携帯の電波が届くわけもない地下深くなのに、どうして? 邪魔しないでよ。
待ち合わせの時間はとっくに過ぎているけどそんなの承知。戻りたくないもんあんなところ。猜疑と嫉妬、嫌悪……おせっかい、束縛、欲求おしつけ命令実行、愛だかんだで右向け右! 不快極まりないったらありゃしない。やだやだ絶対もう行かない。放っておいてよかまわないで。
こんなうるさいもの壊してやろうと携帯を探るけど見つからない。ポケットの中でスカスカと指が抜ける、底がない。なんだろいったいこれはなに?うるさいってば。
私はじたばたと携帯を探す。でも見つからない。私を追い立てるように響くピピピ音。どうしてくれようピピピ音。
そんなこんなで泣きそうになっている私の前にマスターが勘定書を置いた。今までツケにしてもらっていた分まで勘定に入っている。出入り禁止ってことだろうか、お行儀悪すぎたから?
「時間ですから」
マスターが静かに言った。閉店時間?そんなのこの店にあったんだ? 他の席の人たちはもう誰もいないのだろうかときょろきょろしてみるけど、深いソファに阻まれて席は見えない。
私を包む安らぎが弾けた。むき出しになった皮膚がヒリヒリと痛む気がした。息が苦しくなってキリキリ心が細くなる。マスターは相変わらず微笑んでいるけど、居続けることを許さないという威圧がひしひしと伝わってくる。
仕方なく私は全額を支払い、入口の川をとぼとぼ渡って店のドアを開けた。
深い地下に地上の音が流れ込む。狭い壁に反響して私を攻撃する。ぐぉんぐぉんと頭を殴るような音、じっとりと生臭い空気、ちくちくきな臭い気配。それでも仕方なく私は階段を上る。地上がどんどんせまってくる。
三つ目の踊り場を過ぎたら差すような光が私を襲った。
いやだ! やっぱりいや!
くるりと踵を返した私の背後からたくさんの音が追ってきた。大きな白い男が私の足首を掴んで私は逆さまに転んだ。精一杯手をのばすけど見えなくなったバーのドアに届くわけもなく、仕方なく私は階段にしがみつく。
あのソファに戻る! あの快適に戻るの。
思い切り足をひっぱられた。私の抵抗は空しく階段からはがされ、身体がずるずると引き上げられる。
「さかさまだ、気をつけろ」
地上から声が聞こえた。どうして私がこんな目にあわなきゃいけないのよ。私はなにもしていない待ち合わせだってしたくてしたわけじゃないのに勝手に決まっていただけじゃない。出たくないのよ会いたくないのよ関わりたくないのよ傷つきたくないのよ死にたくないのよもう。
ずるずると引き上げられ眩しい光の元に引き出された。白い人たちに囲まれて、悲しくて悲しくて大声で泣いた。
ハイヒールはいつのまにか脱げてしまっていて、私の足は裸だった。
出典『境界にあるバーにて』サロンアンソロジー 鹿鳴館出版局
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