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官能文学辞典

テーマ小説「境界にあるバーにて」ー第五夜ー 【久美子-1】

 

「ラムをロックで」
  視線の端で、彼は小さく頷いた。軽くステアされた氷が、光を反射させながらゆっくりとグラスの中を泳いでいた。グラス越しに覗く白くて細い指。私は身を乗り出してその様子をじっと眺めていた。氷が溶ける音で、ハッとして両隣を気にしたが、深い椅子と長いカウンターが見えるだけであった。
  目の前にはシンプルなグラスがひとつあるだけ。一口を舌に乗せ、そっと飲み込んだ。それはあくる日の彼女の味だった。
  私にこの店を教えたのは彼女だった。とは言っても、彼女と共にこの店に入ったことは無い。地下深くにあるその場所は、そもそも二人連れで来るような場所でも無かった。
  その日も彼女は、身に付けていた右薬指のリングをスルリと外し、四つ折りにしたハンカチーフに包んでベッドわきに置いた。そして私の右小指に嵌った細いリングを外して、自らの左薬指に嵌めた。私の右小指と彼女の左薬指は、サイズがまったく一緒なのだ。彼女は、私の右手を握り、右小指に残ったリング跡を唇でなぞってみせた。そして余ったほうの指で、私の左薬指に嵌められたリングを撫でるのだった。
「同じ世界に生きながら、同じ時を生きられない私たちにピッタリの場所があるの」
  彼女はそう言ってこの場所を私に教えた。しかし彼女は、決して私を誘ったりはしなかった。もしかしたら偶然に、彼女と出くわすのではないか。そんな期待も、五回ほど通った後に持たなくなった。出くわした所で彼女は私に声など掛けないだろうし、私もまた、席を立ったりはしないと分かったからだ。
  あくる日、彼女は少しだけ酔っていた。その日彼女は、右手で引き抜いたリングをハンカチーフに包んだ。私は嫉妬心から強引に彼女を抱いた。唇を重ねる瞬間、彼女は少しだけ抵抗をし、私はそれを右手で押さえ込んだ。彼女の唇には、ラムの味が残っていた。
  あの時よりも喉を焼くラムを流し込んでいると、女性のバーテンが氷を取りにやってきた。その口元には、相変わらず笑みを乗せていたが、私と視線は絡まなかった。
  私は右小指に嵌めていたリングを取り、それを目の前のグラスに落とした。氷にぶつかり、僅かだが確かに金属の音がした。
「混ぜてくれませんか」
  バーテンは、口元の笑みを消すことなく、小さく頷くと、グラスを手にとった。美しく白い、無機質な指であった。彼女の指は、優雅にバースプーンを操った。心地好い音を響かせながら、リングは回った。私はグラスに口を付けた。一気に飲み干したグラスの底に、小さな金色のリングが光っていた。

 

出典『境界にあるバーにて』サロンアンソロジー 鹿鳴館出版局

 


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