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官能文学辞典

テーマ小説「境界にあるバーにて」 ー第九夜ー 【執事-2】

 

 急な昇り階段の途中の踊り場、三つもある踊り場のひとつに小さなドアを見つけた。この地下深いバーを利用するようになって、もう三年以上になるというのに、どうして気がつかなかったのだろうと思っていると、私の手はそのドアを勝手に開けてしまった。
  そして、いけない、と、そう思うのに、ドアが施錠されていなかったので、そのまま私は中に入ってしまった。悪い癖だった。この癖のために、私は子供の頃から何度となく泣かされている。廃屋の窓が壊れていたのでそこから入って二階の角部屋で犯されたのは中学二年の夏のことだった。初体験がレイプだったのだ。ところが、私はどうしてか怖いとか悲しいと感じることなく、やっぱりと感じていた。やっぱり初体験はレイプだった、と、そう思ったのだ。
  変態として有名になった高校の先輩に興味を持って、その男を誘って酷い目に遭ったときだって、私は、全身の痛みと屈辱に泣きながら、やっぱりこうなるのかあって、そう感じていた。
  いつだって思いもしないような酷い目なんだけど、いつだって思っている以上には悲惨な被害者にはならなかった。だから私はその後も、本当に酷い目に遭いながらも、好奇心に身を任せる癖が治らなかったのだ。
  ドアの中に入ると、そこは室内の階段の踊り場だった。こんなところに従業員用のエレベータが隠されていたのかと私は納得した。だって、あんなに地下深いバーに、しかも、どこかのビルの地下にあるはずのバーにエレベータがないはずがないのだから。私がエレベータを探して踊り場を見まわすと、階段の踊り場にしては少し広いその空間の端に、しゃがみこんでいる男がいるのを見つけた。奇妙なことに踊り場には電気も窓もないのに、ほんのりと明るかった。
「あのう、ここはどこですか。エレベータとかあるんですか」
  しゃがんでいた男が顔を上げた。人間の姿だけど、顔はネズミそのものだった。長い髭もある。言葉は通じるのだろうかと心配だったが不思議と怖さはなかった。そうしたドアに入ったからには、ネズミの顔の人間に出会うぐらいは普通のことだと思ったからだ。
「ここがどこって、ここは途中に決まっているだろう」
「途中って」
「途中といえば、あんた、いろいろな途中だよ。老いとか腐食とか滅亡とか崩壊とか」
「嫌なことばかりね。成長とか、成功とか、成就とかそうしたものはないの」
「あんた、自分の年齢を知らないのかね。そんなものの途中があるのは十五歳の暮までだろうが。それともあんたの髪には白いものは一本もないのかい。あんたの顔には皺がひとつもないのかい。おやおや、皺どころかシミまで出来ているようだね。ほら、下りの階段ならある、さっさと行ったらどうだね」
「あなたは何をしているの」
「迷ったんだよ。道にじゃないぞ。道なんか下りしかないからな。どこまで下るべきかで、迷ったんじゃよ。迷ってためらってたらネズミになっちまってな。ネズミもけっこう気持ちいいので、ますます迷ってしまったというわけだよ」
  階段を見下ろした。下はどんよりと曇ってやわらかそうだった。注意深く周囲を見ると、ほんのりと赤身がかったピンク色の壁だった。私は急に怖くなった。これまでどんなドアを潜ったときにだって、どんな酷い目に遭ったときだって怖いなんて思わなかったのに、その壁が階下に通じる階段が怖かった。
「だいじょうぶですか」
  耳の奥を擽るような優しい高音が私を現実にもどした。目を開けると、女性のバーテンが私のクレジットカードを差し出しているのが見えた。いつものバーの光景だった。
「ありがとうございました。少し酔いましたか」
「そうね。少し酔ったのかもしれない。でも、美味しかったわ。酔った後に、あの階段は辛いのよね」
「皆さん、そうおっしゃります」
  店を出て少し階段を昇った踊り場で、私はドアを探したが見つかるはずもなかった。ただ、壁に向こうにネズミはいるような気がした。

 

出典『境界にあるバーにて』サロンアンソロジー 鹿鳴館出版局

 


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