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官能文学辞典

「都会の底で」 —砂場— 【ミーヤ】

 


 昨夜職場の同僚であるブランコから電話がきた。源氏名が砂場の私と違って、公園の遊具としては一流の名前を付けられ、店の売れっ子の女だ。SM嬢として働き始めて早2年が過ぎた。今の店、チャイルドパークに来たのは以前砂場として働いていた子の代わりとしてで、ちょうど1年前のことだ。3日前のプレイで食糞をし、その後2日間休んでいるから心配になって電話してきたらしい。嫌な女だ。ちょっとモテるからって偽善者振る女は嫌いだ。あんな店で働いている人間が、他人の心配なんてするわけないのだ。電話してきたのだって周りから情が厚いとか思われたいからだろう。そもそも私が食糞くらいで熱を出すなんてことはないのだ。この2日間は仮病を使って休んでいるだけだ。面倒なので電話口でかなりつらそうなフリをして対応をした。ブランコはすっかり信じきっている様子だった。本当にバカな女だ。
  この連休で、定期的に会っている彼女の元へ行くのである。仮病でも使わない限り、連休なんて取らせてはもらえない。
  彼女に会いに行くようになったのは3年前から。一度たりとも忘れたことはない。忘れたりしたらどうなるかもわからない、きっと彼女が私を探しに来るに違いない。意外に寂しがり屋な女だから。
  生憎、天候は良くなかった。今にも雨が降り出しそうで、きっと彼女が寂しくて泣きそうになっているんだと感じられた。正午前、光が丘行きのバスに乗り込んだ。平日の昼間にしては車内は混んでいた。普段バスに乗ることはほとんどない。空席が無いため仕方なく立っていた。どうせ20分たらずの道だ、ダイエットだと思えばどうってことはなかった。バスが発車してから案の定雨が振りだした。雨粒は大きく、一瞬にして窓の視界を悪くした。そういえば、あの日も今日のような雨の日だった。

***

「性格は違うと思っていたけど、本質は似てるのね。同業者になるなんて思ってもみなかったわ」
彼女が言った。
「まぁね。でも私はS専門だから、両方できるあなたに比べたら大したことないわ」
「店によって毛色が全然違うから、いろいろと注意しなさいね」
彼女はいつも私を心配してくれていた。私がSMクラブでSとして働くことになったことを告げると、嬉しそうにそう言ってくれた。年齢は一緒だが、彼女の方が業界での仕事の経験は長かった。
  彼女は幼い頃から性に関心が強く、初体験も14歳と早かった。彼女は初体験以降、毎日のように男を変えてセックスに明け暮れていった。彼女が18の時、今のSMクラブの店長に出会い、そのまますんなりとSMの世界へ入って行った。最初はM女として働いていたらしいが、金にがめつい店長がS女もやれと強要してきたらしい。好奇心旺盛な彼女だったから特に異論は無かったようでSでもMでもプレイしていた。
  そんな彼女でも一つだけ拒んでいたことがある。それが食糞だった。それ以外は何でもやっていた。幸い、食糞ができる子がいたのでやらずに済んでいると彼女から聞いたことがあった。
  彼女が働き出してから数年後、私も他のSMクラブで働くようになり、徐々に会えない期間が増えていった。メールや電話は結構していたものの、それでも以前よりは相当減っていたと思う。
  そんなある日、私がその日最後のお客とのプレイ中、突然の喪失感に襲われ涙が止まらなくなってしまった。どうしてこうなっているかもわからず、相手のお客にも戸惑われ、何とかその場をやり遂げ仕事を終わらせた。その後ロッカールームで携帯を開いたとき、凄まじい件数の着信履歴が表示されていた。私は何事かと怖くなり、履歴の相手に電話を掛けた。彼女が亡くなったという病院からの電話だった。何が起こったのかわからず、頭が真っ白のまま早々に着替え、店を後にした。外は大粒の雨が降っていて、店から数歩歩いただけで、びしょ濡れになってしまうほどだった。やっとの思いでタクシーをつかまえ、指定された病院へ急いだ。私が駆け付けた時には既に彼女は霊安室にいて、冷たく静かに眠っていた。何故こうなってしまっているのか皆目見当がつかなかったが、最後に会った2週間前の彼女の様子を思い返すと、確かにいつもより顔色が悪く体調は良くなさそうだったような気がした。その時彼女が言っていたことを思い出した。
「あなたもわかっているかとは思うけど、プレイのときは気をつけなさいね。狂った人間なんて腐るほどいるわ」
何となく言いたいことはわかっていたつもりだったが、その時はいつもの心配だと思っていた。彼女は何かの病気だったのだろうか。どうして連絡をくれなかったのだろう。言えないことなんて私達の間には無いはずなのに。
  病院からの帰り道、遺品として渡された携帯電話の着信がけたたましく鳴った。液晶画面に店長の文字が表示されていた。私は通話ボタンを押して電話に出た。
「砂場ちゃん?店長です。体調よくなったかな?この前のお客さん、早く砂場ちゃんに犬のうんち食べさせたくて待ちきれないみたいだから早く出勤してねぇ。あまり休んでられるとお給料減らしちゃうよぉ?あはは」
甘ったるく粘着質そうな男の声だった。どういうことなんだ。犬の糞を彼女に食べさせていたということ?私は怒りで震えが止まらなかった。同業である以上、こんなことがあるなんて許してはおけない。
  私が彼女の復讐を決意するまで時間は必要なかった。雨は相変わらず降り続いていて、遠くで雷が鳴り始めていた。

***

  バスが目的地に到着した時には雨は小降りに変わり、雲の隙間から太陽の光が薄らと見えだしていた。3年前、彼女の墓を光が丘にある墓地に建ててあげた。太陽の光が好きだった彼女、外で遊ぶのが大好きで、幼い頃から大人しい私の手をとってよく公園に連れ出してくれていたことが昨日のことのように思い返される。彼女に会った後、帰りがけによく遊んでいた公園を横切った。ふと彼女に名前を呼ばれた気がして、思わず立ち寄った。砂場に入ってみる。昼間の雨で砂は闇の色をしていた。どちらが綺麗に泥団子を作れるかよく競争したものだ。不器用な私は必ず負けていた。その場にしゃがみこんで両手で砂をかき集め、おにぎりを作るようにきゅっと握ってみる。やっぱり上手くできなかった。もう一度砂を穿った。そのとき、手に異物が混じったのを感じ、余計な砂を払い落とし固形物だけを手に残すと、それはカピカピに乾ききった野良犬のうんちだった。ひどく馬鹿にされたようで無性に腹立たしくなった。手の中のうんちを砂場の外に叩きつけるように投げ、作った泥団子を足で踏み潰した。私はすぐに公園を後にした。空を見上げると太陽が顔を出していた。

「ちゃんと私が仕返ししてあげるからね。お姉ちゃん」

 

出典『都会の底で』サロンアンソロジー 鹿鳴館出版局

 


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