「都会の底で」 —ブランコが済むアパートの大家— 【猫咲】
私が一人でこのアパートの大家をするようになってから、もう二十年余りになります。庭のイチョウの木はいつも穏やかで雄々しく、まるであなたに見守られているようで、とても安心するのです。
今日もまた外階段を、けたたましい靴音をたてながらあの子が二階から駆け降りて行きました。どうやらこれから仕事に出掛けるようです。もう八つ時になろうかという時分なのに、一体あの子はあんな形(なり)をして、何処に行ってどんな仕事をするのでしょうか。それでも最近は毎晩日付が変わる前には帰宅しているようですが、少し前までは明け方に帰って来ることもしばしばでした。遅れがちではあるもののお家賃を滞らせるようなことはないので、まだ大丈夫だとは思うのですが、生活の乱れが心配です。
あの子が履いているあれは、確かミュールと言ったでしょうか、平べったいサンダルのような履き物で、およそ歩きやすいとは言えない代物です。そんなもの履いてると身体に悪いと何度も注意しました。ちょうど、私には派手過ぎて履けない貰い物の運動靴があったので、譲ってあげようともしたのだけれど、素気なく断られてしまいました。最近の若い人たちは扱いが難しいのです。他の部屋の子たちも何かと私に手を焼かせます。ろくに挨拶もできない、ゴミ出しの規則は守らない、設備の扱いは乱暴、部外者を連れ込んで朝まで騒ぐ。本当に困ったものです。
大家という立場上、店子のことは全てきちんと把握し管理すべきなのでしょうが、私はできるだけ鷹揚に構えていたかったのです。だってこのアパートは愛するあなたが遺してくれた大切な場所、そして、縁あってここに住まうようになったあの若者たちは、とうとう人の親になることのできなかったあなたと私の、子供たちも同然なのですから。
とはいえ、私は少し彼らを甘やかし過ぎたのかもしれません。やはり親としては、子供たちがこれから何処に出て行こうとも恥ずかしくないように、厳しく躾けるべきなのでしょう。
私も随分と年を取りました。そしてこの古いアパートも、同じだけきちんと年を取りました。壁は薄汚れ、ところどころひびが入りました。いつもあの子が駆け降りる鉄製の外階段にも錆が浮いてきました。あなたが逝ってしまった頃には修繕したばかりで綺麗なものでしたね。でもそろそろ本格的に手入れをしなければならない時期なのかもしれません。
大丈夫、あなたの眠りを妨げるようなことはしません。私がこの手で与えた眠り。うふふ、あなたがこのイチョウの木の下で眠っていることは私しか知らないんですよ。私の愛するあなた。そうだ、今年は子供たちと銀杏拾って食べましょう。私の愛する子供たちと。
出典『都会の底で』サロンアンソロジー 鹿鳴館出版局
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