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官能文学辞典

「都会の底で」 —ハズミ— 【久美子】

 

「おまたせー」
  気だるげな彼女の挨拶は何時ものことだ。大抵は私が時間通りに待ち合わせ場所に到着し、彼女はその五分後くらいにやってくる。どうしてだか何時も五分なのだ。
「久しぶりぃ」
  私が片手を上げると、彼女はパタパタと駆け寄ってくる。
「会いたかったよお。色々積もる話が有ってさ。今夜はとことん、語り明かそうねっ」
  女の子は大抵おしゃべりな生き物だが、彼女はその中でも特別よく話す方だった。以前そのことを冗談混じりに指摘したことがある。
『遊具に囲まれて生活をしているから、会話に飢えているのよ』
  少しばかり考えて、彼女はそう答えた。まるで自分に言い訳をしているようであった。
その返答の意味はさっぱり分からなかったが、私は頷いて『大変なんだねえ』と答える。彼女はうんうんと頷いた。私達は言葉を与え合いたいのでは無い。ただ、互いに吐き出したいだけなのだ。
「ねえ、ハズミ、何にするの」
  名前を呼ばれてハッとした。どうやら、何を飲むのか、と聞かれているらしい。彼女の話をまるで聞いていなかった事がバレやしないかと、私は少しだけ慌てる。
「あ、じゃあ、ジントニックを。」
  店員が軽く会釈をして去っていく。一度も目を合わせることもない。客と店の人間なんて、所詮はその程度の関係なのだ。
「珍しいね」
「何が?」
「ハズミって、いつも甘いお酒しか飲まないじゃない」
  お子様だから、と彼女が茶化す。私は頬を膨らませて拗ねる素振りをした。
「最近ね、色々飲めるようになったんだあ」
「へえ、興味深いなあ。それって、多分だけど、オトコ関係でしょ」
  彼女の勘は鋭い。
  私にジンを飲ませた男。彼は、初めは私の客でしか無かった。
  風俗で働き始めて3年になる。3年も居ると、大抵居心地も良くなり、いつの間にか抜け出せなくなる。何度か店も変わった。初めはセクキャバで小銭を稼ぐ毎日だったけれど、一度ソープで働くとそれまでの仕事が急に馬鹿らしくなった。手を洗ったかどうかも分からない客にアソコを触られるくらいなら、自分の手で丹念に洗ったペニスに触れるほうがよっぽど平気に思えた。
  その日は土曜日にも関わらず、店は空いていた。待機の時間を持て余し、携帯をカチカチと弄る。複数件のデートの誘いを軽くかわして、私は時計の針のトロさをひとり、詰(なじ)っていた。
「××ちゃん、指名入ったよ」
  店長が付けてくれた源氏名は花の名前だった。綺麗な響きだと思い気分良く頷いたが、その花は随分と醜い別称も持っていた。大して可愛くも無く、スタイルも良くない私は、影でよくその別称で呼ばれている。初めてそれを知ったのはインターネットの掲示板であったが、だからと言ってそんな理由で源氏名を変えて欲しいと言うのも意識しすぎているようで嫌だった。
「はーい」
  モニタで客の様子を確認する。歳は30前半くらいだろうか?スーツを着ている。まず、知り合いでは無さそうだ。
  準備を整え、男を迎える準備をする。慣れたもので、手際は自分で言うもなんだけどかなり良い方だし、適度に手の抜き方も身に付けている。鏡の前でニコリ。それなりに高級とはいかないまでも、良い給料くれるお店に勤めているんだ。最低限のサービス精神くらいは持っていなければと思う。
「はじめましてぇ、ご指名有難うございます、××ですう」
  店での私は、天然おっとり系。にっこりとゆるく笑ってペコリと頭を下げる。これは私の持論だが、風俗に来る男は頭が悪そうな女を好む傾向にあるようだ。
「こんばんは。僕はユウです。今夜は宜しくね。」
  丁寧な挨拶に、私はちょっと驚いた。よく見ると見た目も悪くない。30代前半には違いないだろうが、何だかフレッシュさがある。私はすっかり彼のことが気に入った。風俗嬢とはいえ、人間なのだ。好感を抱くときもあればその逆の時もある。
  よし、今夜はサービスしちゃうぞおっと、私は精一杯尽くしてみせた。
「凄いね、風俗でこんなに気持ちよくなったのは初めてだ」
  帰る時間の間際、彼はそう言った。それがリップサービスなのだということは分かっていたけれど、気分は良かった。
「良ければ、また指名してください。私もユウさんみたいなお客様だと、凄くがんばっちゃいます」
  必ずまた来るよと彼は言った。それから一ヶ月、私は内心、今夜こそ彼が来るのではないかとドキドキしながら待っていた。しかし彼は一向に訪れなかった。もう来ないんだろう。そう私が諦めた数日後、彼はひょいと現れた。
「ごめんね、仕事が忙しくって。でも、約束通りまた来たよ」
  舞い上がる自分が奇妙であった。その日、私は全てを彼に許した。彼とはその後店の外でも会うようになった。
「ハズミ」
  彼が私の名を呼ぶ。心地よさが広がる。私達はすっかり、恋人同士だった。
  彼はお酒をよく飲んだ。特にジンが好きで、余りお酒に詳しくない私にジンをベースに様々なお酒を作って飲ませてくれた。
  酔うと、彼は少しだけ乱暴になる。口調とか、態度とか、たまに手も出た。私は乱暴に抱かれるのが好きな女だったから、私達は相性が良いんだとそのことにすらうっとりとした。今思えば、既に共依存は始まっていたのかもしれない。
  彼が私に暴力をふるうまで、そう時間は掛からなかった。
  ジンを注いだグラスが割れる。その音をどこか遠くで聞いた。遠い意識の中で、私はただ、彼を受け入れようと必死であった。
  彼の怒鳴り声に、条件反射のように全身が震える。泣くと、もっと怒られる。
「お前は俺を怒らせて楽しいのか。どうして俺を怒らせることばかりするんだ。言葉が理解できないのか、そうなんだろう、なあ、何とか言えよ」
  言葉が詰まって声にならない。それがまた彼を苛立たせてしまう。膝を抱えながら、早く時間がすぎることだけを願っていた。
  私達は、どこで間違えてしまったんだろう。全身を蹴られながら、それでも思い出すのは優しい彼の顔なのだ。どんなに冷たい言葉で堕とされても、嵐が過ぎたあとの彼の両腕は何時だって温かかった。それでも、確実に限界は近づいていたのだと思う。
  店を休みがちになり、身体中に痣を作る私はとうとう店をクビになってしまった。どうしよう。頭を抱える私に、解雇を告げたばかりの店長が言った。
「別の店を紹介するから、そこの寮に入りなさい」
  私は俯いたまま頷いた。ようやく、涙が流れた。
「全然、進んでないじゃない」
  飲み放題なのに、と彼女は言う。そう言う彼女は既に6杯目。ペースが若干、何時もより早い気がする。
「うーん、やっぱり、あんまり美味しく感じないかも」
「なんだ、カッコつけただけかあ。苦手なんだからさ、ジュースみたいなお酒飲んでるのが、ハズミにはあってるよ」
  うん。そうかもね。私が頷くと、彼女も満足そうに二度頷く。どうやらすっかり酔っ払っているらしい。たまには、いいか。私はグラスをわきに寄せると、ごくりとお冷を喉に流し込む。
  パリン。遠くで、ガラスの割れる音がした。
  一瞬の沈黙と、店員の淡々とした謝罪の声。
  遠くに見える透明のグラスに、もう飲むことの出来ないあの時のジンの味を思い出した。

 

出典『都会の底で』サロンアンソロジー 鹿鳴館出版局

 


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