夜釣りの帰り道、男は呉服問屋の裏で立ち止まった。手頃な大木がある。まさかと思った。呉服問屋には、その男がまだ子供だった頃よりの憧れのお絹がいる。しかし、この木に登ってそこから中を見たところで、そこがお絹の部屋のわけがない。そう思いながらも男は登らないではいられなかった。
不器用に木を登ると、暗闇にうっすらと蚊帳が見えた。月明かりで蚊帳の中の白い二本の足も見ることができた。あの細い足はお絹のもに違いなかった。
細い二本の足はバタバタと忙しく動き、あたかも男を誘っているかのようだった。蚊帳の外には何やら白いものがある。無造作に投げ捨てられている。
あれはお絹の下穿きに違いないと男は思った。寝る直前までつけていたに違いない。この暑さのことである。あの下穿きには着物の上からでは分からないお絹のもうひとつの匂い、お絹の本当の匂いが染みついているに違いない、男はそう考えて興奮した。
何の取り柄もないが男は釣りだけは得意だった。男はまるで幻の大魚を狙う太公望のように真剣に白い布を見つめた。距離に問題はなかった。
「ギャー」
呉服問屋中に響く女の悲鳴があった。
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呉服問屋の一人娘のお絹のものであった。旦那が目の中に入れても痛くないと日頃から他人に言うほど大事にしていた娘である。家中のものがお絹の寝屋に駆けつけた。
「お、お化けよ、夢じゃないの、お化けが出たのよ」
お絹は震えていた。小用に布団から出ると暗闇を何やら白い物がふあふあと漂っていたとお絹は言うのだ。最初は少し寝ぼけていて、怖いと思わず漂う白い物の後を目で追うと塀のところで男と目が合ったというのだ。
しかし、お絹はあわてていた。
「白い布が飛んでいて、それで、それで、目が合ったの」
「布に目が有ったのか」
翌朝も呉服問屋はこの話題でもちきりだった。翌朝にはお絹は自分の脱ぎ散らかした下穿きがなくなっていることに気づきはしたのだが、それはもう言えなくなっていた。ふわふあと宙を舞う布に目が有ったのではなく、塀の上にいた男と目が合ったのだということもついでに言わないままにおいた。
幕末の江戸で、この話はたちまち広まって行く。夜中にふあふあと宙を舞う大きな目をぎょろりとさせた一反木綿という妖怪の話となって。
出典『妖怪は変態』山口師範著 鹿鳴館出版局
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