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【 事 例 】 |
(女性 三十三歳) |
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私は自分が男に好まれるタイプではないから、だから、私なんかを好きになってくれる男がいたら、その男をただひたすら愛し大事にするしかないから、だから自分はMなんだって思っていました。
男が望むことは何でもしようと思っていました。それが性的なことでも、日常の趣味でも、経済的なことでも、全てを男の思うままに合わせようと思っていました。
趣味も食べものの好みも何もかも男に合わせ、それで自分は幸せなんだと思いました。
ハードなSM趣味の男はそれがゆえに私の好みだったのです。酷いことをされればされるほど、こんなことを耐えてあげられるのは私だけだ、こんな男と別れないでいられるのは私ぐらいだ、こんな男を愛せるのは私だけだ、と、そう思えるのが嬉しかったのです。
私が愛するような男はたいてい頭も悪く経済的にも私に依存するようなタイプでした。そのほうが安心できるのです。男の言うことはたいてい間違っていますが、それは指摘しません、それを指摘せずに聞いてあげられるのは私ぐらいだと思えるから私にはそれが幸せだったのです。
暴力はもっと好きでした。私なら耐えられる、私でなければ耐えられない、と、そう思えるから好きだったのです。
ところが私はある時、気づいてしまったのです。私が本当に望んでいるのは、男に盲目的に従う悲劇の自分なのではなく、絶対に自分を傷つける可能性のない自分よりもはるかに劣った男なだけだということに。
私よりも頭が悪く、知ったがぶったことばかり言う男は、私にいろいろなことを教え常に私を説教しますが、頭が悪いので私を本質的に傷つけたりはしません。暴力で私の肉体を傷つけることができたとしても、いえ、肉体を傷つけるような男のほうが心は傷つけないのです。私が本当に望んでいたのはそちらのほうだったのです。
大きな犬を飼うのに似ています。大きな犬は私より強いし、私は彼の牙にいつも怯えていなければなりません。でも、彼がどんなに強くても私が餌を与えなければ死ぬのです。
これが本当にマゾヒズムなのかどうかは私には分かりません。ただ、虐げられて興奮できるのですからマゾヒズムとしか言いようがないように思うのです。いえ、もしかしたら、それこそがマゾヒズムの本質なのかもしれないとさえ思えるのです。
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