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【 事 例 】 |
(男性 五十五歳) |
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縛られて抵抗できなくなった後で、私は女の服を脱がして行くのです。それはかんたんな行為ではありません。縄が邪魔して服も下着も脱がすのは困難です。でも、私はあえて着衣のまま緊縛し、一部を解いたり、縛り直したりして服を脱がして行くのです。
この時、女が剥き出しにされる素肌に羞恥し抵抗してくれると私はより大きな興奮を得ることになります。
最後には全裸にした女が縛られた状態で残ります。ただし、この時の縄は、もう、全身、どこにどう走っているのか判別できないほど滅茶苦茶になっています。
私には女を綺麗に縛ろうなどという酔狂はないので、それでいいのです。
私の足元には全裸にされ陰部を剥き出しにされ、それでも抵抗できない女がころがっているのです。私が何をしても、その女にはもう抵抗する気力など残っていません。
自分がしたことなのに、その状態の女を見ると、私は急に女が可哀相になってしまうのです。可哀相で可愛く見えてくるのです。女の容姿とか年齢なんて関係ありません。本当のところ女に羞恥があるとかないとかそんなこともどうでもいいのです。そんなものとは関係なく私はそこにころがる女が愛しく、そして、性的な対象として、とてもたいせつなもののように思えてしまうのです。
鞭で打ってより可哀相な目にあわせるのもいい、セックスしてやるのもいい、放尿などさせるのもいい、何をしても、どうせ相手は抵抗できないのです。憐れなものです。そして、美しいものです。
愛しいのですから、これがサディズムと呼べるものなのかどうか、そんなこと私には分かりません。だいたい、そんなことは私にはどうでもいいことなのですから。
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